108.誰がそれを隠したか


 ところが男が望んだような多少でも取り乱す声は一切聴こえてこなかった。


 耳に届いた者全員を底冷えさせるような静かなそれは、相変わらずゆったりとどこかから届けられる。


 声の主は近くにあるはずなのにだ。


「えぇ、しっかりと。許されておりますとも」


 だが男はまだ己で築いた自信の中にあった。


「はっ。そんなわけがあるか。おかしなことを言って俺を──」


 男の言葉は遮られる。


「あなたもお分かりのはずですよ。常に陰ながらあなたをお守りしている方々がこうも姿を見せず、易々と私たちにこちらへの侵入を許してくださった。その意味をね」


 実は男もそれについては考えていた。

 男の周りにいる者たちは、この国ではどこの者にも引けを取らないはずだからだ。


 それもまた男の自信の源となるひとつに違いなく。

 

 それでもしかし。

 男はたとえこの場に味方が一人もなくも、と共に生きてきた自分ならばこの場を切り抜けられる。

 そういう自信を持っていた。


 どうやらよく喋る相手のようだから。

 気持ちよく話をさせて、機を窺うか。


 男が願わなくても、確かに声は続いていく。


「お疑いでしたら、書状をお見せしましょうか?あぁ、どちら様にも一筆頂きましたからね。どうかご安心くださいませ」


 男は答えなかった。

 男にあった余裕が揺らぎ始めたからだ。


 いや、まさか。

 はったりであろう。

 どうせ書状など偽物……待て待て、と言ったか?


「表も裏も。そういうことです。どうです、安心されましたでしょう?」


 男は内心では動揺をしていたけれど、沈黙を続けた。

 男の立場からは想定をする必要もない異例の事態であったとして。

 がこのような場合にどうするか、それは学んでいたからである。


 いずれ同僚になるとしても。

 自分はだろうと。

 考えていたとして、それは必要な知識だった。


「おや、なおも黙秘を続けるとは。これは意外なことでしたね。妹君に近いものをお持ちなのかと思っておりましたが」


 あれと一緒にはしてくれるなと。

 男にそういう想いがなかったわけではない。


 だが他者の考えを訂正し、それが何になるのだろう?


 男の考えはこうだった。


 他人の考えていることなど、男には些末なこと。

 それが自分に関わるものであったとしても、他者の思考の間違いを訂正する気概はこの男にはない。


「そうでしたね。あなたと妹君は違うのですから。あなたの態度も当然でしょうか。ふふふふふ」


 不気味な笑い声だけは、やけに近くから聴こえた気がした。

 お前の心の内などすべて読めているぞと、そう宣言するような不快な笑いだ。


「ですがもうよろしいのですよ?ない頭で無駄に考えることなどやめてしまってくださいな。浅慮でどこまでも素直ないつものあなたで、どうぞご自由にお話しください。これも今だけのことですからね」


 男が黙っているのを良いことに、声はさらに続いていく。


「実は私、あなたのその稀有な性質について、よく知りたいと思っておりましてね。生まれ持ったものなのか、その身の上で育てたものなのか。あぁ、それを知ったところで、何も変わりやしませんとも。単なる個人的な興味ですよ。ちょうど少し前から、幼子の心の成長というものに、大きな関心を持っておりましてね。えぇ、幸運にも、ちょっとしたきっかけを誰か様方が与えてくださったものですから」


 男の激情を引き出そうとでもしているのだろう。


 そのように求められたとしても。


 男は稀有なその気質を隠そうと、黙秘をしているわけではなかった。

 元より人を罵倒するような、その手の上っ面な攻撃性は持たない。


 それよりはもっとこう……直接的な……生けるものとして意味のある……その種の実用的な攻撃性を男としては多少抱えているだけのことだという認識である。


 そしてそれ以前に。

 首に冷やりと感じるそれを忘れてまで爆発させるほどの、そういった厄介な衝動性を男は持たなかった。


 それはそう。まさに先に亡くした妹のような。

 激しい癇癪は、男には生まれてから一度も経験がない。


「あなたもまた、表も裏も関係なく、大層自由にのびのびとお育ちになられたそうですね。そのお立場を窮屈に感じるどころか、むしろ喜々として活用する有様。兄君はあなたのその自由さをそれは羨んでおられるようでしたけれど。さて」


 声は少しの間を空けて、そして男に問うた。


「あなたは三番目であることを恨んでおりましたか?」





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