6.芝居に打たれた心
その日アルメスタ公爵邸は、今までにない緊張感に包まれていた。
「きゃあ!」
侍女としてあるまじき大きな叫び声に、見事セイディが反応を示したとき、最も近くにいたアルメスタ公爵も、側で控えていた侍女長も、ほっと安堵する。
目論見通り、ことが運べば上々。
そう容易く変化が見られなかったとして、これがひとつのきっかけになればいい。
セイディはいつもより僅かに目を見開いて、ベッドの上から床に転げた侍女を凝視した。
そんなセイディの髪をアルメスタ公爵がそっと撫でつける。
栄養状態が悪くぼろぼろだった髪が一朝一夕の努力で美しく変わるわけはなかったが、綺麗に洗い、香油を使って手入れしているおかげで、以前とは見違えるほど手触りは良くなっている。
まだ櫛で軽く引っ掛けただけで千切れてしまう脆さのため、侍女たちはそれは丁寧にセイディの髪を扱った。
顎よりも短く切りそろえた髪も、肩より伸びる頃には元の美しさを取り戻していると侍女たちも期待する。
「まぁ、大変!」
若干わざとらしさの残る大きな声で叫んだのは、先輩侍女だ。
たちまちセイディの見開かれていた瞳は、いつもの大きさに戻った。
「わわ。ごめんなさい!絨毯が!どうしましょう!」
若い侍女が前のめりに転んだとき、持っていた盆の中身は飛散した。
分厚い絨毯が食器を守り割れずに済んだが、零れだした液体は止まらず、真っ白い絨毯に茶色いシミが広がっていく。
あえて濃いお茶を入れたのはこのためだ。
「そんなことはいいのよ」
と声を掛けたのは、先に叫んだ先輩侍女だ。
そしてこれに「そうよ、そんなことよりあなたは大丈夫かしら?」と声を掛けたのは、セイディの近くにいた侍女長である。
セイディの瞳がまたほんの僅かに見開かれる。
その目にほんのりと浮かぶは戸惑い。
「大きな音が聞こえたわよ。どうしたの?」
ぞくぞくと騒ぎを聞きつけ部屋に入って来る侍女たちもまた、いつもより大きな声でたった今転んだ侍女を励ました。
「まぁ、転んでしまったのね。怪我はない?」
「そうよ、火傷はしていないの?」
「大丈夫です。それより絨毯を汚してしまって」
「それよりだなんて。身体より大事なことはないわ。念のため、医務室で身体を診て貰いなさい。これは命令よ」
侍女長が心配そうな顔をして命じれば、感激したように若い侍女は頭を下げた。
「ありがとうございます!あの、絨毯は弁償しますので!お給金ではとても払えないかもしれませんが、支払いを終えるまで無給で構いません」
「まぁ、なんてことを言うのよ」
「そうよそうよ。わたくしたちを馬鹿にしているの?」
先輩侍女たちが怒ったように言うので、若い侍女は慌てて首を振ったのだが、先輩侍女たちのお喋りは止まらない。
「わたしたちに掛かれば、このくらいの染み、あったことが分からないくらい綺麗になるわ!」
「うふふ。汚れを見るとやる気が出るわねぇ。腕が鳴るわよ」
「たまにこういうやりがいのある仕事を増やして貰えると嬉しいのよね。皆が優秀過ぎて腕試しの機会がないんだもの」
その言葉のどれくらいをセイディが理解しているかは分からない。
けれども間違いなく心が動いていた。
セイディの瞳がアルメスタ公爵にはいつもと違って見えていたから。
それは食事のときに、軽微な光を灯すそれとも違っていた。
「さぁ、さっさと綺麗にするわよ~!」
一人の侍女の掛け声のあと、集まった侍女たちは零れた茶をトントンと押し付けるようにして布巾でふき取ると、落ちた食器を回収して、その後は絨毯も巻き上げ皆でそれを抱えて部屋から出て行った。
最後に残ったのは、転んだ侍女と侍女長である。
「主さま、セイディさま、お騒がせして申し訳ありません」
「大変申し訳ありません」
侍女長が先に謝り、若い侍女がこれに続くと、アルメスタ公爵はひとつ頷いて柔和に笑った。
そんな顔をセイディが来る前の公爵邸で彼は見せたことはなかったが、セイディに分かるはずもない。
「誰にも失敗はある。綺麗にならねば新しい絨毯を買うから気にするな。それより怪我がないか、よく診て貰うように」
「はい!ありがとうございます!」
若い侍女は感激と感謝をその表情で思いっきり示したあと、侍女長と共に部屋を出て行った。
セイディの視線はアルメスタ公爵に留まっている。
「驚かせて悪かったね、セイディ」
ここでは失敗をしても誰も背中を見せて蹲れとは言わないよ。
汚さないようにと懸命に足を高く上げる必要もないんだ。
むしろ汚せば、あのように喜んで貰える。
アルメスタ公爵は言葉でも伝えてきたことを、実演させたわけである。
絨毯に関しては、公爵邸で重ねられる会議のときに、撤去しては?という意見も多かった。
確かにそれでセイディが生きやすくなるのはいいが、ただ問題を先送りにするだけとなっては違うのではないか、という意見も出され。
ここが安心出来る場所だと学ぶ機会を与えながら、それでいてしばらく絨毯なしの暮らしを提供してはどうか、そういう結論が出されたのだ。
そうして打たれたこの一芝居。
今回役を与えられた侍女たちは、役者さながら、毎日遅くまで演技の練習を重ねていた。
結果、上手くいったようである。
「セイディは絨毯がない方が好きかな?」
じーっとアルメスタ公爵を見ていたセイディの視線が床に落ちる。
絨毯のない木の床を見詰める瞳は何を感じているのだろうか。
いつもと感じの違う瞳に、アルメスタ公爵は期待した。
「うちの使用人たちは凄い技術を持っていてね。今に見てごらん。あの汚れた絨毯は、三日もすれば真っ白に戻り、綺麗になって、ここに敷かれているよ。でもセイディが絨毯のない方が好きなら、それもいいと思っていてね。木の床を歩くこともいいものだから」
セイディは答えない……かと思いきや。
「きれいなる……なりますか?」
急な反応に頭が真っ白になったアルメスタ公爵は、しばし停止した。
セイディがいつもの瞳で口を押さえたときに、正気に戻ったアルメスタ公爵は、少々大きな声を出してしまう。
「なる!綺麗になる!真っ白になるとも!」
今のは夢ではないよな?
セイディのあの「仰せのままに」というか細い声は何度か聞いた。
たった今、それでない声をはじめて──。
アルメスタ公爵はもう一度セイディの声を聴こうとその後いつもに増して熱心に語り掛けていたが。
この日セイディがこれ以上話すことはなかった。
しかし、セイディは確実に変わり始めている。
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