7.お庭で心を掴んだもの

 アルメスタ公爵の期待通りとはならず、相変わらずセイディは話さなかった。

 しかし変わった点もある。

 少しずつ固形物を飲み込めるようになった。


 今のセイディのお気に入りのおやつは、卵を使ったプリンだ。

 徐々に卵の割合を増やして、今では固めのプリンも嬉しそうに頬張っている。

 ちなみに生クリームを乗せるととても喜ぶが、まだ食後に気分が悪くなることからこちらは控えられた。



 といっても、セイディの好きな味や体調を正確に把握出来る人間は一人しかいない。

 アルメスタ公爵の次にセイディの側にいる時間の長い侍女長とて、セイディの瞳の輝きは読めていなかった。

 これまでのアルメスタ公爵が人の機微に聡いということもなかったので、これは番の感覚だろう。

 しかし侍女長はそれでも女主人となるセイディの心を読もうと、毎日熱心にセイディの表情や仕草を観察している。


 一方アルメスタ公爵は、自分だけがセイディを理解していることに常時ご満悦だ。

 ところがそんなアルメスタ公爵も、最近医者に叱られて落ち込んでいた。


 半ば攫ってセイディを屋敷に連れ帰ったときは、セイディには筋力もあり足腰は意外と強かった。

 調査の結果、番の香りを分からなくする特殊な香水を振り掛けられた状態で、店の手伝いをさせられていたことが分かっている。

 当然その仕事は表に出るようなものではなかったが、店の奥でよく歩き回っていたのだろうと考えられた。


 ところがアルメスタ公爵が心配するあまり、その後ほとんどの時間をベッドの上に囲われたセイディは、筋力がすっかりと衰え、前のように動けなくなったのだ。

 さすがに医者も厳しさを見せ、アルメスタ公爵は反省することになった。



 だから今日もアルメスタ公爵は誘う。


「セイディ。今日は晴れているから、お庭をお散歩しようか」



 ちなみに雨の日はこうだ。


「セイディ。今日は雨が降っているから、屋敷の中を探検しようね」


 

 このように散歩が日課となったセイディであるが、やはり最初は大変だった。

 まず綺麗な靴に戸惑い、芝生の上ではおっかなびっくりといった状態だったのである。


 アルメスタ公爵が靴を履かせると、セイディは僅かに目を見開いて固まった。

 その後庭まで抱え運ばれて、芝生の上に降ろされたセイディは、俯いて芝生を凝視した。


 そこでアルメスタ公爵が「前へ足を出して。歩いて」と柔らかい口調で命じると、足を踏み出したセイディが、あの絨毯の上で見せてきた動きを披露したのだ。


 踏んではいけないと思うと、急いで足を高く上げてしまうらしい。

 しかし両足は上げられない。だから次の一歩を踏んだ瞬間に、着いていた足を高く上げる、を繰り返して、蟹のような珍妙な動きを見せた。



 セイディの内に蔓延る大きな課題。

 それはもうアルメスタ公爵だけでなく、邸で働く使用人たちも理解している。


 セイディは自身を酷く汚れた存在と認識しているのだ。

 醜くて汚いものだから、美しいものに触れてはいけないと信じている。


 だから目を離せば、ベッドから飛び降りた。

 いつも清潔に整えられたベッドにある自分の存在に耐えられなくなるのだろう。

 洗面所の床が貴重な石で出来ていることなど知らず、石だから汚してもまだいいものだと思うセイディは、あの場所に逃げ込んだ。

 

 絨毯だって同じだ。

 あの侍女たちが一芝居見せたあとから、絨毯の上で珍妙に足を上げる動きをやめたセイディは、それでも早足で移動している。

 そこで足がもつれて転び、セイディの筋力の衰えが露呈して、アルメスタ公爵は医者に叱られることになったのだが。


「セイディ。この芝生……この短い緑の草が広がるこれは、芝生と言ってね。庭師が長さを揃え整えてくれているんだよ」


 はじめてみるセイディに分かるよう言葉を選びながら、アルメスタ公爵はセイディを抱き上げた。

 セイディはなすがまま抱き上げられて、美しい芝生を見詰めながら、アルメスタ公爵の声を聴いている。


「庭師たちも侍女たちと同じなんだ。彼らはとても優秀でね。私やセイディが少し踏んで傷付けてしまっても、この芝生をすぐに元通りにしてくれるんだよ。なぁ、そうだな?」


 庭師を代表する男がいつの間にか側にいて頭を下げる、その頭部を、セイディはじっと見詰めていた。

 男が顔を上げたあとも、セイディの視線はその頭頂部に向かっている。


「左様ですとも。わしら、整える場所が増えると嬉しいんですわ。だからどんどん踏んでしまってくだされ。セイディさまもどうぞ、お好きなように歩いてください。歩くだけでなく、この庭を駆けてくださいますと、わしらは嬉しいですぞ」


 うんとも寸とも言わないセイディに、庭師の男は微笑みかけた。

 しかしセイディは顔を見ることなく彼の頭頂部から視線を逸らすと、アルメスタ公爵の耳元を見た。


 そして──。


「しばふ。きれいなる……なりますか?」


「なるとも。だから安心して」


 庭師はとても驚いていて、反応が出来なかった。

 セイディの声を聞いてしまったからだ。



 この男はその後、使用人たちからとても羨ましがられることになる。

 皆、次の声を聴けるのは誰だと、競うようにしてセイディに話し掛けてきたからだ。

 はじめて庭に出て来て、はじめてセイディと話したこのベテラン庭師が、まさかこんなにあっさりとセイディの声を頂戴することになろうとは。

 セイディとしてはこの庭師に語り掛けたわけではなかろうが、庭師にとって忘れられない日となった。


 そして今、アルメスタ公爵邸の庭はますます変わりつつある。


 セイディが駆けてもいいよう広い面積を芝生で柔らかく整えて、芝生を囲うよう花壇を配置し、美しさの前にセイディの興味を引くためそこに色を溢れさせた。果樹も多く植えられ、食への関心も引き出そうと試みられる。

 ただ美しいだけではない庭。だが全体としては、しっかり美しい。

 セイディには美しいものに沢山触れて欲しいから。



 セイディは今日もアルメスタ公爵に手を引かれ芝生を横切ると、何かを見付け、花壇の前で立ち止まった。

 やがてセイディの視線は、花の蜜に誘われやって来た蝶を追い掛ける。


 してやったりと、庭師たちは遠くで満面の笑みを浮かべていた。


 庭に出てセイディがたびたび心を掴まれるようになると、ますます庭師たちは自信を得て仕事に邁進するようになった。

 やはり庭師を取りまとめる男が、セイディの声を聴いたことが大きいのではないか。


 彼らは今日も集まって話し合う。

 議題はもちろん、セイディさまがもっと喜ぶ庭にするには、これだけだ。


 庭師をまとめる男は、今日も張り切って若い者たちから意見を聞いた。


 その若い庭師の中にはちらほらと、セイディの視線が庭よりも長く上司の頭頂部に留まっていることに気付く者が出て来たが。

 さすがにこれは、誰も本人には伝えられていない。





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