閑話 おえかきはおくがふかいのです①
王都のアルメスタ公爵邸には、今は子どもはいないはずだった。
だが外部の者が見れば、子ども部屋としか見受けられない部屋がある。
それもひとつや、ふたつの話ではない。
今日の舞台となるその部屋も、そのうちのひとつだ。
床一面を覆うのは、大きなクマの顔が描かれた分厚い絨毯。
家具は一切なく、まさに子どもの遊び場と言える部屋だった。
しかし今日はその部屋の様子がいつもとは違っている。
絨毯に描かれたクマの目を隠すようにして、二つの小さな机が距離を離し並べられていたのだ。
ウサギの顔の形をしたそれは、どう見ても子ども用の机に見えた。
さらにクマの鼻を隠すようにして、こじんまりとした丸い台がひとつ。天板には花を生けた花瓶が置かれ、この花瓶がネコ型だった。
クマの顔の上、それも目の上にウサギが二羽、鼻の上にネコが一匹……センスを疑うことはやめておこう。
すべては子どもを喜ばせるためのことだと思えば……いや、しかしアルメスタ公爵邸に子どもはいないはずである。
そんな奇妙な部屋に入って来たのは若い男女。
二人は自然にそれぞれ机を前にして絨毯へと腰を下ろした。
一人は小柄で、まだ少女のようにも思えたが、さすがにその机は小さ過ぎるのではないか。
もう一人に至っては、窮屈そうに机の前で背中を丸め、無理やりにでも机を利用しようとしている。
何故誰も、もっと大きな机を用意しようとは言わないのだろうか。
それには「はぅ。うしゃぎっ」と机を見て喜んだ令嬢の存在があるのだが。
この通りであるから、今のアルメスタ公爵邸には不用意に近寄らないことをおすすめする。
外部の人間にはあまりにも危険な場所だ。
さて、今日はそんな危険伴うアルメスタ公爵邸の子ども部屋にて過ごす若い二人の様子をもう少しだけ見ていることにしよう。
「るどはこれです」
あらゆる色に溢れた木箱から緑のクレヨンを取り出して手渡されたとき。
ジェラルドはその意味について嫌な予感を覚えていた。
そしてそれはすぐさま現実となる。
「せいでぃは、ぴーまんのおいろはつかいません」
ゆったりと語られたその言葉に、嫌な意味は一切含まれていないことを、ジェラルドだって知っていた。
しかしどうにも心は穏やかにはならない。
愛しい番が嫌なものをこの世から排除しようと思えども、それを押し付けられると複雑な気持ちとなるジェラルドだった。
だがそこはやはり愛しい番のため。
ジェラルドは真剣な顔で頷いて、セイディの目を真直ぐに見詰めると堂々と宣言した。
「ここはルドに任せてくれ」
ジェラルドの回答に満足したと言うように鷹揚に頷いたセイディを見ていると、ジェラルドもついつい頬を緩めて微笑んでしまう。
それは彼の内に過剰な自信を育てた。
「セイディが嫌いなものはピーマンでも魔王でもなんでもルドが倒して「まおうはせいでぃがたおします」そうだったな。……さぁ、何を描く?」
分かっていながらジェラルドはあえて聞く。
そうすれば、よくぞ聞いてくれたと、セイディが胸を張るから。
「おはなです。せいでぃがいけました!」
「なんだと!凄いな、セイディ!この花をセイディが活けたのか!いつもとは違うように感じていたんだ!」
花瓶に差し込まれた不揃いの花々。
何かいつもと違うなぁと……気付いてもいなかったジェラルドであるが、すべてを知っていたように語ってみせた。
ジェラルドとしては、絵の題材として家の者の誰かが花を活けたのだろうなと、そのように思っていたのだ。ネコ型の花瓶を選んだことだって、セイディを喜ばせるためだろうと。
それがどうした、まさかのセイディの手によるものだと言うではないか。
ジェラルドの回答を受けて、セイディはまた鷹揚に頷いた。
満足そうにしているが、うっとりとした目は早く早くと何かを望んでいる。
すぐにジェラルドもその瞳の輝きに気が付いて手を伸ばした。
「おぉ、そうだな。凄いぞ、セイディ。よしよししよう!」
「はい!せいでぃはすごいのです。るどはたくさんよちよちしましゅっ!」
くふっとどこからか何かを愛でたときに出るような息の漏れる音が聴こえても、それは耳にしなかったことにして、ジェラルドはセイディの頭を撫で回した。
しかしどうにも、心に引っ掛かるものがあって、ジェラルドは落ち着かない。
その理由はすぐに判明するのだった。
「おかあしゃまも、みごとだといいました!せいでぃはおはなをきれいにいけます!」
眉を顰め、つい手を止めてしまったジェラルド。
──待て、これはまた初めてを奪われたという話では?
さらなる番の言葉が、不快さに追い打ちを掛けて来た。
「せいでぃはおはなをえらぶのがじょうずです。へんりがいいます。かびんをえらぶのもじょうずです。そふぃあがいいましゅ。るどはよちよちです!」
手が止まっているぞ!と訴えられたジェラルドは、はっと気付いて急ぎセイディの頭を撫でる。
番に触れていれば、ジェラルドはささくれだった心を癒されていった。
あとで各々にはしっかりと不満を伝えに行くとして。
せっかく今は二人きりだ。
「セイディは、凄いな。よしよし。今日はセイディのもっと凄いところを、特別にルドにだけ見せてくれるのだね?」
「はい!せいでぃはすごいえをかきます!みてくだしゃい!」
ご満悦でクレヨンを持ったセイディ。
しかしジェラルドは気付いてしまった。
鮮やかな花を描くのに、手元には緑一色。
普段絵を描くことをしてこなかったジェラルドにとっては、緑色から使えというのはかなりの難題だった。
「セイディ、他の色も使って「だめです!」なぜだ?」
ジェラルドはまさかの番からの厳しい言葉に動揺する。
「ぴーまんのおいろを、るどがないないします」
「……トット。このピーマン色のクレヨンを廃棄しておいてくれ。それから今後は二度と購入しないように」
ジェラルドはうっかりと自分から二人だけの世界を壊してしまった。
呼べば現れる侍従は、さすが出て来るのが早い。
「主さま。お花を描く際にはそちらの色も必要かと」
相変わらず空から降ってきたように軽やかに現れた侍従は、爽やかな笑顔でそう言った。
ジェラルドの眉間に深い皺が刻まれる。
「セイディの嫌いな色だぞ?」
「教育も大事だと思いますよ、主さま」
「だったらお前たちから──待て消えるな。せめてこのクレヨンを持って行ってくれ」
「るど?せいでぃのきれいなおはなをかきませんか?」
──セイディのお花だと?
ジェラルドがこの花を永久保存せよと命じることが確定した瞬間である。
すでに最初からこの花々はドライフラワーとなって未来永劫飾られる運命ではあったのだけれど。
「ふっ。任せてくれ、セイディ。役に立たない侍従や庭師より、私の方がよほどセイディのためになることをよーく分からせてあげようね」
ジェラルドの言葉は何一つ伝わっていなかったであろうが、今のセイディは忙しかった。
そうして適当に頷いたセイディは、花を描くことに夢中となる。
ジェラルドもまた、番を追い掛けるようにして、ひとときは一心不乱に花を描いた。
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