閑話 おえかきはおくがふかいのです②
「できました!」
「ルドも描き終えたところだ!」
セイディがさっそく大きな紙を持って、描いたものをジェラルドへと見せ付ける。
しかしジェラルドには、どういうわけか絵より色鮮やかに見えるセイディの様子の方が先に目に入った。
袖を捲っていたのに、腕だけでなく、袖も、それから服の胸やお腹の辺りも、そのうえ右の頬も、あらゆる色に染まっているのだ。
されども今見るべきところはそこではない。
花……そうこれは花だ。
色を変えながら描かれる線と線と線と時々円と、やはり線と線……これは花の絵である。
「素晴らしいよ、セイディ。上手に描けたね」
「はい!せいでぃは、じょうずにかきました!」
「うんうん、はじめて共に描いた絵だ。並べて額に入れて飾らねばならんな。たとえ絵であっても離れ離れには出来ん。二枚の絵が入る大きな額を用意しておいてくれ。聞いているな、トット?」
声を掛けても、今度は出て来ない侍従に苛立ちながら、ジェラルドは考えた。
絵を描くことなど何年振りか。
思い返せば、セイディが幼い頃も。
描くのを見詰めるばかりで、自分では描いていなかったように思うジェラルドである。
おそらくはジェラルドのそれは記憶がないほどの幼少期だ。
知っているのはあの両親……と思い至ったところで、ジェラルドは自身の経験についてはどうでも良くなった。
セイディのかつての絵はとても子どもらしく、なんとも形容しがたい芸術品だったけれど。
今に同じものを感じ取れば、胸がじんわりと熱くなって……。
「せいでぃはなにをかいたでしょう?」
懐かしい記憶を引っ張り出していたジェラルドは、まさかの問い掛けに、一瞬は聞き間違えたかと考えた。
しかし現実は無情で。
セイディを見やれば、絵を掲げ、きらきらとした瞳でジェラルドを見詰めている。
「は、花を描いたのだろう?」
「せいでぃがかいたはなはどれでしょう?」
「な……」
なんだと?
ジェラルドはすっかり狼狽えていた。
こういった場合には、花瓶に活けた花をすべて描くものではなかったか。
ジェラルドの常識は番を前に崩れ去った。
しかし色がある。
使った色の花を選べばいいだけではないか!
こうしてジェラルドは此度の問題のレベルを侮るのだった。
「あれとあれとあれだな?」
以前より自信に満ちて答えたジェラルド。
しかしながらやはり現実は無情で。
「……ちがいます」
口を尖らせたセイディに、ジェラルドはまた狼狽えた。
トラップか?
そうなんだな?色によるトラップを仕掛けたんだな?
さすがは私の番。賢い子に育って……。
という現実逃避も無情な現実は許してくれず。
じっとりと不満を込めた視線が送られたジェラルドは酷く焦った。
「いや、違うんだ、違うんだよ、セイディ。ルドはちょっと間違えただけでな。あぁ、えぇと……では、これとこれだな?」
「…………ちがいます」
分かって貰えなかった失望で、セイディの瞳がたちまち陰ていく。
まずい、とジェラルドが一段と慌てたとき。
「まだまだですね主さまは。こちらとこちら、それからこちらですよね、セイディさま?」
「とっと!」
「はい、セイディさまのトットは、セイディさまの絵をよーく理解出来ますよ。今日も素晴らしい絵を描きましたね、セイディさま」
「はい!せいでぃのえはすばらしいのです!」
ふふんと胸を張って、それから若干蔑むようにジェラルドを見詰めたセイディ。
これにはジェラルドだって酷く落ち込んでしまった。
「す、すまないセイディ。違うんだ。本当は分かっていてね。ルドは嘘など吐かないからな?本当は分かっていたんだ」
ジェラルドの方を向き、すんすんと鼻を吸って、それから頷くセイディ。
「るどはうそつきさんのかおりはしません」
嘘吐きさんは香るというのが、セイディの中で定着していた。
外部の人間に騙されることはあるまいが、それでも香りがなければ誰でも信用するような大人に成長したら大変なことになるだろう。
しかしそこはアルメスタ家。誰もこれを訂正しないまま、今に至る。
「そうだろう?だからルドも本当は分かっていたんだ。セイディが描いたのは、これとこれとこれだな?」
香りの件は、いつだってジェラルドの心を抉った。
番として生涯愛し合えないのではないか。
その不安はいつも拭えずにそこにあって、ジェラルドは意思を持ち、その不安や怖れに抗って生きているところだ。
セイディが日々成長しているのだから。
ジェラルドが勝手に希望を捨てて、世界を破壊するわけにはいかない。
番を知る者としての最上の幸福を求めながら、番の本能に抗うという困難に挑み続けるジェラルド。
しかし今この瞬間は、ジェラルドにとってはセイディの信頼を回復することこそが、最重要事項だ。
ジェラルドは大嘘を吐きながら、戦々恐々としてセイディの反応を待っていた。
最近はよく嘘を吐きまくっているジェラルドである。大人としてそれでいいのか。
セイディがゆったりと頷いたとき。
ジェラルドは勝利した気分を得た。
番の瞳に輝きが戻ってくれば、ジェラルドは心底安堵する。
だからジェラルドはここで気を緩め過ぎたのだ。
「るどのえもみます」
「おぉ、そうだな。どうだ、この芸術的な絵は?緑一本で描いたにしては──」
「……ぴーまんでしゅ」
ぶふっと息を吐いたのは誰だったか。
思わずジェラルドは周囲を睨んだが、先までそこにいたはずのトットの姿さえ見えない。
──あいつ、本当に覚えていろ?
ジェラルドは侍従に苛立ちながら、こうなることを予測すべきだったと後悔していた。
何を描いたって、これではピーマンである。
しかしそもそもの話。
彼は一体何を描いていたのだろう……。
これは……色の問題では決してないはずである。
花はどこへ消えたか。
──主さま。絵心の再教育受けられます?
聴こえぬはずの声が届いて、さらに苛立ったジェラルドはつい「うるさいっ」と声に出して言ってしまった。
「うるさい?」
「違うんだ、セイディ。あぁ、この絵はそんなに嫌か。すまない嫌な想いをさせた。次の絵は他の色を使っ「だめです」そんな」
それでは花が描けないではないかと絶句したジェラルドであったが、絶対にそれは色の問題ではない。
多数の色を使えたとして、ピーマンからは脱することが出来ようが、その先にも花はないと思われる。
「るどはぴーまんのおいろをないないします!たくさんつかうとないないするのです!おかあしゃまいいました!」
「……分かった。塗り潰してやろうではないか!」
「ぬりつぶしてやろうではないか?」
「そうだとも。塗り潰しだ!見ていてくれ、セイディ。ルドがピーマンを立派に倒すところを!絵などこうだっ!」
素早いジェラルドの手の動きに、きゃーっと喜ぶセイディであったが。
「セイディさま、もうすぐおやつの時間となりますよ。お手を洗って、お着換えしましょうね」
「はい!せいでぃはぷりんがいいです!」
「料理長のルースが、今日もまた特別なプリンを作ったと言っていましたよ」
「とくべつなぷりん!たのしみでしゅ!せいでぃはいそぎましゅ!」
クレヨンを使い切ろうと本気になったジェラルドは、いつの間にか一人部屋に取り残されているのだった。
それは大分時間が過ぎてからのこと。
「ほら、見てくれ、セイディ。もう半分に短く……セイディ?どこだセイディ?」
慌てて部屋を飛び出したジェラルドは、さらなる災難に見舞われた。
香りを辿りすぐさま見付けたセイディの元に駆け寄って、振られた手に手を振り返したときだ。
手の側面が緑であったことから、「ぴーまんです」としょんぼりと言ったセイディを励まそうと、さらに近付いてよしよしをしようとすれば。
さあっとその手を避けられる事態となるおまけまでついてきたのだから。
お絵描き侮れず。
「くっ。緑のクレヨンなどこの世から抹消してやる!製造元から攻めればいいな?見ていろ、ピーマンめ!」
大騒ぎする主君の言葉に耳を傾ける者は、今日もアルメスタ公爵邸にはおらず。
結局二人の絵が並べて飾られることもなかった。
(閑話 おえかきはおくがふかいのです 完)
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