99.暗い底から


 今日はこの部屋の壁に穴をいくつ増やすつもりだろうか。

 こんなにも息子が部屋を破壊しているというのに、レイモンドに動揺は見えなかった。


「誰かはひとまず置いておこう。保護した当時の怯えようや、特定の言葉への反応を見るに、誰かに傷付けられていたことはまず間違いないだろうね。だがそのすべてがそうではなかったかもしれない」


「やめてください!違います!」


「この件に明確な答えはないよ、ジェラルド。今から話すことだって可能性のひとつだ」


 話の帰結する先を想定すれば、ジェラルドはもう何も聞きたくはなかった。

 何も知らずに番との未来を楽しく描いていたかったから。


 そんなジェラルドの想いを知っているだろうに。

 レイモンドは非情にも言葉を紡ぐ。


「たとえば古いと見受けられる傷のいくつかは、突き刺したような痕にも見えた。抉ったように見えたものもある」


「もういいです!もういい!」


 叫びと共に、今度は壁を蹴っていたジェラルド。

 一段と大きな穴が空いて、長くパラパラと欠片が散り行く。


 それでもレイモンドはやめておこうかと悩む素振りさえ見せてくれない。


「明らかに鞭打ちと思われる傷は別として。多くは他害か自傷か明確には判断が付けられなくてね」


「セイディは幼かったのですよ!」


「体当たりでもして、傷付けたのかもしれない。食事だって自分では食べようとしなかったから、命じるようになったのかもしれないね」


「脅されていたのですよ!幼い子どもが!ただそれだけの話だ!」


「もちろん、すべては推測の域を出ないよ。でもその推測を事実とすれば、こうも考えられる」


 ジェラルドは耳を塞ぎたくなった。

 セイディが拙い言葉で語ったように、どこかに移動して、僅かな時。

 敬語を使うよう命じられ、誰かに背中を差し出さなければならなかったその時だけ。


 あの香りを少し嗅いでいた。


 それだけのことにして終わりたいのに──。


 何故可能性に過ぎないそれを聞かせてくる?


 あなたは父親だろう?

 あなたは番を知っているだろう?


 ジェラルドは怒りに任せて、また壁を蹴った。

 いくら周りを壊そうと、結果は伴わない。


「生かすために香油を使った。生かし続けるために使い続けた──」


「それが何です?生かしてやったのだから、感謝しろとでも?」


 父親の話の矛先をどうにか変えてやろうと、ジェラルドは先からずっと的外れな言葉ばかり選んで叫んでいる。

 それなのに。父親は冷酷だ。


「感謝など要らぬし、私も許しはしないさ。もう少しだけ聞けるかい、ジェラルド?」


 レイモンドは聞いておきながら息子の返事を待ってもくれないのだ。


「過激な衝動を抑えるためだ。通常より多くの量を使い、濃い香りを嗅がせていた可能性がある。その後も効果が切れてしまえば、同じことの繰り返しか。そうならないように常用したか。それで衝動を抑えられたとすれば、脳にはそれだけの刺激があったということにもなろう。成長が止まっていた理由はそこにあったのかもしれないと、カールとは話していてね」


「やめてください……」


「希望はあるよ、ジェラルド。身体だって成長してきたね?」


「だから……だからと言って……セイディは!」


「成長を効果の薄れとすれば、身体に蓄積する毒と捉え、解毒についても考えられる。うちの者たちが急いで調べているところだから、君も希望を持って──」


「そんなことをしても……そんなことをしても!これだけ一緒にいるのですよ?それなのに一度もない!一瞬もない!ならばもうセイディは!私のセイディはっ!」


 ジェラルドは自分で答えに繋がる言葉を叫んでしまった。

 それは薄々と感じながらも、ジェラルドがずっと無視し続けてきたもの。



 ──セイディはこれからも番を知らない?



 ただ生きてくれさえいれば、それだけでいい。

 共にあれば幸せだから。


 そう信じてきた清らかな幻想が脆くも崩れ去る。


 これも本能かと、冷静な頭では感じ取っていた。

 だがその本能がここで暴れろと願う。


 こんなことは許さない、認めない、という強い意思が内から湧いた。


 頭ではここで暴れたところで何も解決しないことは分かっているのに。



 ──もう同じ想いを共有出来ない?


 ──この愛しさは伝わらず?


 ──愛してももらえない?



 ──嫌だ、嫌だ、嫌だ!



 ──そんな世界は要らない!壊してしまえ!



 本能が叫ぶと、頭からも冷静さが欠けていった。



 ──全部壊して、魂からやり直せばいいのでは?



 何故そのような結論に至るのか、ジェラルドにだって分からない。

 この瞬間に衝動を抑えられていたら、ジェラルドは王女の一番の理解者となれていたのだろうか。


 まったくもって理路整然とせずに導かれた結論に、ジェラルドはもう抗うことが出来ず、高く腕を振り上げる。



 ──そうだとも。何もかも壊してしまえばいい。大事な番を壊した世界だ。




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