98.落ちてしまっても


 瞬間的にカッと熱くなった身体。

 それと並行して何故か冷えていく頭。


 すでに目のまえでテーブルが真ん中から割れて崩れているのに。

 まだ足りないと立ち上がった身体が、意思なく別のものを破壊しようと試みる。


 一方でどこまでも冷静な頭は、父親が先ほどあれを侍従に持ち去らせた意味を理解した。


 ここにあれば叩き割って、今頃は父親と共に濃い香りを浴びている。


 ぎらぎらとした異様な目で部屋を見渡すジェラルドに、レイモンドは落ち着けとも言って来ない。

 この衝動を自身に向けていたのなら止めてくれるのだろうなと、やはり冷静な頭はそのように言って来た。


 ドンっという大きな音に続き、パラパラと破片が落ちていく音。


 ジェラルドの拳が壁を打ち抜いたのだ。


 このとき衝動が一瞬落ち着いた隙を逃さなかったのは、ジェラルド自身となる。

 冷静な頭で荒げた息を整えようとジェラルドは必死に呼吸を正した。


 そこにレイモンドの優しい声音が流れる。


「当時の君が辛かったように。苦しんでいたのではないかな?」


 そんなことはないと。

 まだ幼いから分からないと。

 この苦しみは自分だけのものだと。


 そう信じることで当時の自分は心を落ち着かせていたのではないか、ジェラルドは冷静な頭でそのように捉えていた。

 番が同じように苦しんでいるという認識を、当時の自分にはとても受け止めることは出来なかったとジェラルドは考える。


 だがその認識が間違いだったとしたら?


 幼いジェラルドが番同士である両親を拒絶していたように。

 幼い王女がジェラルドたちに異常な執着を見せたように。


 幼いセイディもまた苦しんでいたとすれば。


 その想像は今のジェラルドにとっても酷く恐ろしいものだった。

 ただでさえ今は……考えたくもないことを知ろうとしていて、受け止める余裕がない。


 だから続く父親の声色がいくら優しいものであっても、ジェラルドにはそれが自分を苦しめようと囁く悪魔の声に聴こえていた。


「そのうえまだ状況が理解出来ない幼い子どもだ。生家でも夜にはよく泣いていたとの報告があったから、すでに番と離れる辛さを知っていたとも考えられよう」


「な、んでっ!」


 何故それで私たちを引き離した!

 生家に帰さずずっと共にあれば、最初からこんなことには──!


 想いのすべてを言葉に出来ず、今度は手のひらで壁を叩いていたジェラルドに、レイモンドは静かに頷いた。


「そうだね。幼いうちは家族が共にあることを正と決め、君たちに我慢を強いた私たち大人が悪かったのだ。これについてはいつまでも君たちに償わなければいけない」


「償いなど!そんなことをされても!私たちは!」


 バン、バンと壁を高くジェラルド。

 手のひらは相当に痛んでいるはずなのに、ジェラルドは痛みを感じていなかった。


「分かっているとも。だが今はどうか話を聞いて欲しい」


「もう十分です。もう何も聞きたくない」


「知らなければ対処出来ないのだよ、ジェラルド。もう少し……付き合っておくれ」


 頑張れとは言えなかったレイモンドは、壁に両手をついて首を振るジェラルドをじっと見詰めていた。

 そして少しでも息子の動きが落ち着けば、また話し出す。


「幼い身でも君と同じ衝動を抱えていたかもしれない。そういう意識を持って、改めてカールに全身を診察させた」


 医者のカールは今までもずっとセイディの主治医として診療を続けてきた。

 だが今の話をジェラルドは聞いていない。


「何故勝手に!私に断りもなく!」


 ドンという強い音と共に、また壁に穴が空く。

 ジェラルドの攻撃が拳に戻った。


「勝手をしたことについては謝ろう。君の番だ。だがね、前提の認識を改めなければ、見えて来ないものがあるのだよ」


「違いますよ、あの傷は!あれは!そうです。王女に違いない!」


 叫んだ声に、大きく短い音が連なり重なった。






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