97.奈落の底に


 ジェラルドはさらに困惑した。

 しばし顎に手を添え記憶を辿ったが、セイディを連れて王女に会った覚えはない。


 それよりも……。


「父上たちはずっと以前から王女を知っていましたよね?」


 これにレイモンドは肩を竦めながら答える。


「いやぁ、それがね。私たちが共に城に上がるときといえば。晩餐会などの特別な催しでもなければ、シェリルが王妃に会うときに限られていただろう?そのついでに私は王に会ってきたわけだが」


 レイモンドがあの王から嫌われているわけである。


「そのどちらかにあの娘が顔を出すようなことはあっても、彼女の幼少期には揃って遭遇していなかったようなのだよ。ほら、君との顔合わせのときだって、シェリルと王妃だけで対応していただろう?」


「顔合わせ?」


「それも忘れていたか。うん、まぁこれに関してはすっかり忘れてしまって構わないのだけれど。君は一応あの娘の降嫁先として第一候補だったからね」


「はぁ?私がですか?」


「安心しなさい。私たちも最初から無理だと言ってあったし、その場で終わった話だ」


 レイモンドたちは、ジェラルドが幼いうちからこの子はきっと番を知る者だと気付いていた。だから王女の相手など務まらないと、当時は王にもはっきりと断りを入れている。

 それを一度だけでいいからどうしてもとうるさく言ってきたのは王と王妃で。

 王女の様子からなんとなく察していたシェリルが一度くらいならいいのでは?と言ったこともあり、顔合わせは実現してしまった。


 そのときは予想通り、王女はジェラルドに何ら興味を示さなかったけれど。


 それがあとあと、こんなことになっていくのなら。


 セイディを奪われたあの日から、シェリルがどれだけ泣いたことか。

 それなのに、セイディが戻ってもなお、事実を知って、シェリルがまた苦しんでいる。

 自分があのとき余計なことを言わなければ。

 息子と王女を会わせないようにしていれば。

 そう言って苦しむ妻を見て、レイモンドもまた強く後悔し、憤っているのが今だ。


 息子のためと言いながらも、やはり妻のためを最優先にしレイモンドは動いている最中にある。

 けれども息子と二人で語らうこの時間。レイモンドは珍しいことに父親らしい感情を強く抱いていた。

 その理由をまだジェラルドは分からないし、この時点では気付けるはずもないのだが。


「そういうことでしたか……いえ、しかし……私たちも揃って王女に会うことはなかったように思うのですが?」


 番を得て喜びに溢れていたあの頃。

 その番を誰かに、ましてや王族なんぞに会わせようとしたであろうか?

 ジェラルドは過去のすべてを覚えてなかろうと、その答えが否であることは知っている。


 ここでレイモンドは息子を見詰めて柔らかく微笑んだ。

 その笑みの温かさには、ジェラルドが急いで父親から目を逸らしてしまったくらいだ。


「君ねぇ、人に見せたくないと言いながら、セイディちゃんが喜ぶからとよく外に連れ出していただろう?それをお忍びで出歩いていた王女に見られていてね」


「なっ、そんな、私のせいで……」


 レイモンドは別に、自責の念を妻から息子に移したいわけではない。

 ただの事実として伝えただけ。


「責任など感じなくていい。悪いのはあちらだ」


「そうですが……しかし……」


 セイディを喜ばせたい気持ちは確かにあった。

 されど自分が外を一緒に歩きたいという欲の方が強かったのではないか。


 今だってそれは同じように感じる。そうだ、今も──。


「今後も誰に見られ、勝手に妬まれるか分からないということになりますね?ならばもうデートは禁「セイディちゃんの楽しみを奪うのかい?」くっ……」


 レイモンドはやれやれと首を振って、息子に柔らかく語りかける。

 それはいい父親の様子にも見えるものだった。


「世には閉じ込めておく者もいるようだが。君は違うだろう?それに私たちは一人ではないのだから。今度こそ皆で守ればいい話だ。そうだね?」


「もちろん相手が誰であろうと、セイディを二度と奪わせるつもりはありませんが」


 外ではセイディから片時も離れないジェラルド。

 しかし近頃は、ジェラルドが側にいない外出も増えていた。

 母親がセイディを連れて気軽に出掛けてしまうからだ。


 領地に戻ることも考えて、長時間の移動に耐えられるようにと、あえて頻繁に外に連れ出していることは、ジェラルドも理解している。

 それに今やアルメスタ家の者たちとて警戒の仕方がかつてとは異なっていて、万が一にも何か起きることはないと分かっていた。


 分かっていてもだ。決してこれを認めてはいないジェラルドである。

 セイディと自分の距離が離れるほどに、ジェラルドはあの十年を想起させられた。


 両親はセイディの将来のために少しは慣れろとでも言いたいのであろうが、ジェラルドはいつも出掛けたセイディを慌てて追い掛ける嵌めになる。

 どうせそうなるのだから最初から声を掛けてくれればいいものを、何故あえてこっそり連れ出して……セイディが誰の番か分かっているのか?


 恨めしさにジェラルドがつい目を細めて父親を見てやれば。


「なんだね?」


「い、え。何でもありません」


 返された低い声に反応し、声が上擦ってしまうジェラルドであった。

 レイモンドは番に関わることでの察しが異常にいい。


 なのにレイモンドはそれ以上不機嫌になることはなく、ここ一番と言ってもいいほどの穏やかな声を出して、こう言った。


「それでここからが、になる。だがね」


 この言葉だけでジェラルドは気付いてしまった。

 自分にとっての重要な話、それが一つに限られるから。


「まさかっ!」


 ジェラルドの声とほとんど同時に、大きな音が響き渡った。





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