100.共に浮上して


 ──要らない。要らない。要らない。こんな世界はもう。要らない。



 ジェラルドの身体は何かに乗っ取られたように、勝手に動いた。



 バン。



 その音はジェラルドから出たものではない。

 音と同時に勢いよく開いた扉から流れ込む愛しい香りが、たちまちにジェラルドを包んだ。



 勝手に動こうとしていた身体が、今度は勝手に静止する。



「るど!みてください!せいでぃがんばりまちたっ!」


 愛しい声が。愛しい香りが。愛しいその笑顔が。

 ジェラルドの全体を支配して絡め取った。


 これもまた番を知る者の本能からの反応であったとしても──。


 ジェラルドの視界が溺れ行く。


「あらあらセイディちゃん、どこかに淑女を置いてきちゃったかしら?」


「はぅ!もういちどです!」


 ジェラルドは放心したまま、閉じた扉を見ていた。


 すぐに軽やかにトントントンと音が鳴り、「どうぞ!」とレイモンドが声を張り上げれば。

 今度は扉がゆっくり開いて、扉の向こうから顔を出したセイディが笑顔を見せた。


「せいでぃです。はいります」


「すばらしいわ、セイディちゃん。立派な淑女ね。よしよしよ」


 褒められて上機嫌なセイディが、とことことジェラルドに近付いて来る。

 部屋が荒れていることには、目が留まらないらしい。


 ジェラルドしか見えていないその様子は──。



 ──希望はあるよ。



 ついさっき聞いた父親の言葉が遅れてやっとジェラルドに届いた。



 ──主さま。本日もセイディさまはご成長なされておられます。



 少し前に聞いた侍従の言葉もジェラルドの脳裏で繰り返される。



 ──その先は人それぞれ、どの方向に感情を転換していくかを決めるのは個人の意思だと考えているよ。



 また別の父親の言葉も繰り返された。



 ジェラルドは得心する。



 ──あぁ、そうか。今日のすべてが。私のための時間だった。



 ジェラルドはセイディを見詰め潤んだ目を細めた。


「どうした、セイディ?」


 震えぬように意識して声を出したジェラルドであったが、それは失敗に終わっている。

 セイディもジェラルドの声からいつもとの違いを感じ取ったようで、一瞬は首を傾げた。でも一瞬だけ。


 ジェラルドに会えた喜びが優ったように嬉しそうに笑うと元気に言った。


「るどにみせにきました!」


 セイディが何か大きな紙を後ろ手に隠している。

 ジェラルドはそれに気付いていたけれど。

 急いでハンカチで自身の手を拭って、屈んでセイディの顔を見てしまえば、もう我慢は限界で。


 セイディの要望にすぐには応えられなかった。


 ジェラルドにぎゅっと抱き締められてきゃーっと喜んだセイディは、すぐに不満そうにジェラルドの腕の中で身を捩る。


「るどにみせられません」


「うん、もう少しだけこのままで。お願いだよ、セイディ」


 さすがに異変を無視出来なかったか。

 耳元で聴こえた震える声に、驚いたセイディが顔を上げようとするも。

 ジェラルドが強く抱いているせいで、何も見えない。


「るど?どうしました?いたいですか?おとうしゃま、おこりましたか?」


 その言葉には、シェリルを迎えに立ったレイモンドが笑い声を上げていた。


「ははっ。私は怒ったりしないよ、セイディちゃん。優しい優しいパパだからね」


「やさしいやさしいぱぱだからね?やさしいはやさしいです。ぱぱはなんですか?」


「おとうしゃまはパパでもあるんだ。おかあしゃまはママだね」


「ぱぱ?まま?」


 ジェラルドは大きく息を吸い込んだ。


 ──大丈夫。ここにいる。大丈夫。成長している。大丈夫。この世界はいいところだ。番はいいものだから。セイディがいる。セイディは変わっている。私も意思を持って変わろう。大丈夫だ。よし。


 抱きしめたまま指で目元を拭ってから、ジェラルドは腕を解いてセイディを自由にさせた。


 あまり長くこうしていたら、また両親に余計な言葉を吹き込まれると焦っていたのもある。

 つまりそれくらいに、ジェラルドは正気に戻った。


 ジェラルドの思惑通りに、自由になったセイディはパパとママの件は即座に忘れて、嬉しそうに持っていた紙をジェラルドに見せ付ける。


「せいでぃ、がんばりまちた!」


「セイディは何を頑張ってきたのか……な、なんだと?」


 急速にいつもの調子に戻ったジェラルドは、しかし狼狽えた。


「母上!これはどういうことですか!」


「なんだね、母親に向かってそのように大声を張り上げるなど?」


 レイモンドの声が低くなれば、いつもの調子に戻ってしまったジェラルドは焦る。


「い、や。これは……。いえ、お待ちください。番を知る父上ならばお分かりでしょう?母上もお願いしていたではありませんか!」


「何のことかしら?」


「セイディの初めてを奪うのはやめていただきたい!セイディは私の「るど、みませんか?」はっ!」


 目の前で陰る瞳にジェラルドは焦った。


「見る!見るとも!よく見せてくれ!セイディが描いたのだね?」


「はい!くれよんをつかいました。くれよんはおかあしゃまのおくりものです」


「くっ。その手の道具があったとは……何?私が遅いのだと?相変わらずうるさいな「うるさい?」違うんだ、セイディ。うん、クレヨンか。それは良かったな」


「はい!くれよんでおえかきです!」


「お絵描きか……そうか、初めてのお絵描き……くっ。何故失念していたんだ……。くぅっ……。素晴らしいよ、セイディ。セイディは絵も上手なのだね。凄いな」


「はい!せいでぃはすごいのです。がんばりまちた!」


「よしよしだな。うん、今日は沢山よしよししよう!」


 セイディがきゃあっと喜び、ジェラルドも完全に癒されて。

 これからは楽しい時間を重ねていこうと、まさにめでたしめでたしとなった次の瞬間に、まさかの難題に悩まされることになろうとはジェラルドだって思ってもみなかったことだ。



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