19.苦しい想いはもう一度だけ
すでに機嫌の悪いジェラルドが、乗り気ではないことは明らかだった。
それでも医者はトットが戻した話に便乗する。
「出来るだけ早い方がよろしいでしょう。今宵就寝前に試してはいかがかな?」
「早い方がいいのは分かる。だが昨日の今日だ」
連れ帰ったばかりの頃。
毎日見ていたはずの光の無い瞳を、ジェラルドは出来るならもう二度と見たくはなかった。
それが叶わないとしても、出来るだけセイディにはあの瞳を持たせたくない。
昏い瞳の奥で何を感じているか、今でもジェラルドにはこれが読めなかった。
心が動いていないとすれば、何も感じていないのかもしれないが、もしそうではなかったら?
ジェラルドは想像するだけで、胸が張り裂けそうに傷んだ。
番とは感情を共有し合うから、互いに強く満たされているように感じるのだ。
かつてそのような発言を残した番を知る者がいたが、その意味をジェラルドは今になって実感していた。
番なのに相手の感情が分からない。
この状態は長引くほどにジェラルドの心を傷付けた。
これもセイディの心が動くようになってやっと気付いたことである。
番を失った十年とはまた違う苦しみを、ジェラルドはセイディに再会してから経験していた。
しかし医者は、ジェラルドの気持ちを汲んでやめようとは言って来ない。
「昨日の今日だからですぞ。病や怪我の治療を始める時期は、早ければ早い方が良いことはご存知でしょう?それと同じことです。されども治療するにはまず、その病や怪我の状態というものを正確に把握しなければなりません」
「そうですよ、主さま。セイディさまをお守りするためにも、今夜ぱぱっと確認してしまいましょう」
味方のない状態に、ジェラルドは黙ってしまった。
ジェラルドとて早く知りたいという気持ちはある。
それがそうなら、避ければいい。そうすればセイディは笑って暮らせるのだから。
しかし予測が正しかった場合に、それがまたジェラルドにとっては試練となる。
もう少し言葉を覚えたら、二人の関係について詳しく話して聞かせる予定だった。
この十年の想いも合わせて。
それが出来ぬと知るのは怖い。
番をやっと見付けたジェラルドは、今までになく臆病になっていた。
そんなジェラルドの耳に、いつもより優しい侍従の声が届く。
「主さま。思い出してくださいよ。私たちはすでに何度も問題を乗り越えてきたではありませんか。セイディさまは、この絨毯の上で立ち止まることも平気になりました。夜中に途中で起きてしまっても、今では安心して眠りに戻られていますよね?今回の件も、同じことですよ、主さま。私に作戦がございます」
「……その作戦を聞いてから検討しよう。私にも考えはあるからな」
ジェラルドだって、何も考えていないことはない。
日中セイディに付きっ切りで、その様子を心に刻むことに忙しかったとしてもだ。
「それは当然。もっともセイディさまを理解されております主さまにご相談なくして、最良な策が生じることはないでしょう。主さまのお考えもこのトットに是非お聞かせください」
「もっとも……そうだな。セイディを一番に理解するのは私だ」
そうしてそれは、セイディがもうベッドに入り、あとは眠るだけという段階になってから決行された。
「医者のカールが、今日最後の診察をさせていただきますね、セイディさま」
「いしゃのかーる、きょ、さいご、しんしゃ……」
ベッドに座るセイディの声に、いつもより力がなかった。
侍女たちからよく磨かれて揉まれた後だったので、眠かったのだろうと思われる。
最近体力が付いてきて、湯浴みの途中で眠ることが少なくなった。それでも侍女たちの凄腕のマッサージは眠気を誘うのだろう。
「ではまず今日のことをお聞かせください。今日一日はいかがでしたかな、セイディさま?」
セイディは医者のいる右側ではなく、左を向いて、ベッドの脇に腰掛けたジェラルドを見た。
ジェラルドはその頭を撫でながら、破顔する。
「楽しめたかなと聞いているんだよ。今日もルドと一緒に色んなことをして楽しかったね、セイディ?」
「せいでぃ、るど、いっしょたのちかった」
ここで顔を押さえたのは、ジェラルドだけではなかった。
侍女のメアリなんかは堪えきれずに「なんてお可愛らしいっ!」と声に出してしまっている。
セイディは今、人を真似て話すことが楽しくてならないようだ。
何でも真似ているうち、そのうち意思を持って自分の言葉で話し始めるときがやって来る。
行動も同く。
医者はそのような未来を予期し、セイディの手首を掴むと、脈を測り始めた。
昼間よりゆったりしたリズム。これも眠いからだ。
「それはよぅございましたね。よく遊び楽しむことは、セイディさまのお身体にとてもいいことですからな。あとはよく食べ、よく綺麗にすること、そしてよく眠ることですぞ」
「せいでぃ、きれいなる」
「えぇ、えぇ。公爵さまの番さまは、今日もお綺麗にございます」
瞳から光が失われるまで、あっという間のことだった。
合わせて脈拍も遅れていくことが分かった。
服を脱ごうと腕を動かすセイディの手首をなんとか掴んだままでいられた医者は、このまま脈が止まってしまうのではないかと危惧したほどだ。
「セイディ、脱がなくていいよ。大丈夫だからね」
「仰せのままに」
そう言って、ぴたっと動きを止めたセイディ。
今のセイディからすれば違和しかないやたら流暢なこの言葉が、寸前まで跳ねていた皆の心に重石を乗せる。
医者はしばらくいつも通り話し掛けるよう、この場にいる全員に指示した。
けれども誰が語り掛けても、セイディは焦点の合わない陰る瞳を持ったまま何も語らなかったのである。
医者が「そこまで」と言ったあと、ジェラルドはセイディをぎゅっと抱き締め頭を撫でて、それから少し前まで毎日伝えてきた言葉を告げた。
「横になって」「目を瞑って」「眠りなさい」
すーっと寝息が聞かれたときには、部屋にいるそれぞれの口から安堵の息が漏れていた。
明日には元に戻っていますように。皆が祈る。
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