20.公爵の寂しい一日

 翌朝からセイディは、今までとはまた違った人気者になっていた。


「めありいまちた!おててふりふり!」


「きゃあ!セイディさま、見付けてくださってありがとうございます!メアリもおててふりふりです!」


 わざとらしく開け放たれていた窓の向こうで、足元が見えるようにカーテンの影に隠れ顔を僅かに覗かせた侍女のメアリは、声を掛けられると外に身を乗り出してセイディに向け大きく手を振った。


 ジェラルドは今日は最初から機嫌が悪い。

 それはこの庭に出て来てから顕著となる。


 対照的に、庭師のまとめ役の男ヘンリーは、一目で分かる上機嫌だ。

 近くの太い木の幹に隠れたヘンリーが頭皮から先にぬーっと身体を出せば。


「へんりーいまちた!おててふりふり!」


 セイディは大喜びで、懸命に手を振るのだった。



 どうしてこうなったか。それは今朝から始まっている。


 昨夜のことがあって、皆ははらはらとセイディの目覚めを待っていた。

 いつも通り日の出から少しして目覚めたセイディは、これまたいつも通り「おはよ」と言って、ジェラルドや控えていた侍女長を安堵させたあと。

 急に窓の外を見詰めて、「へんりーないない」と言ったのだ。


 その瞳が陰り掛けていたので、面白くないとは思いつつ、ジェラルドは慌てて指示を出し、ヘンリーは木に登った。

 こうして窓の向こうに朝陽より輝くヘンリーの頭を見付けると、セイディは大喜びで、手を振り始めたのだ。


 このとき側で。


「ヘンリーがいましたね。良かったですね、セイディさま」


「おててふりふりですねぇ。今朝も可愛いをありがとうございます、セイディさま」


 侍女長とトットが続け様に掛けた言葉を、セイディは手を振りながらちゃんと耳に入れていたのである。

 その後一人の侍女が、この楽しい時間の邪魔をせぬようにとそーっと入ってきたことに気付いて振り返ったセイディは。


「りさいまちた!おててふりふり」


 と言ったのだ。

 このことからも、その学習能力は格段に上がっていることが分かる。


 朝の着替えの手伝いに来たはずだった侍女のリサが「まぁあっ」と言ってから声が出なくなって、必死に手を振り、もはや仕事など出来ない状態になっても、誰もこれを咎める者はいなかった。

 セイディがあのぎこちない笑みを浮かべていたからである。

 皆は良かった良かったと涙を堪えるほうに忙しかった。



 さて、優秀な公爵家の使用人たちである。

 朝の情報は瞬く間に共有されて、セイディの行くところ、そこら中に潜み、見付けて貰おうとした。


 こうなると、ジェラルドは面白くない。

 いつも隣にいるジェラルドには、セイディの意識が向かなくなるからだ。


 今なんか、完全に庭師のヘンリーに夢中で、隣にジェラルドがいることを忘れているに違いない。


「さすがでございますよ、セイディさま!おててふりふりがお上手ですな!それもこれも、このヘンリーをよく見て真似してくださったからでしょう!新しいお遊びを教えたのは、このヘンリーですわ。わっはっはっ!」


「真似ならばこの私の方がされている!それに最初に手を振って貰えたのも私だからな!……くっ」


 常に側にいるせいで、今日はまだ一度も手を振って貰えないジェラルドは、屋敷の使用人全員に嫉妬した。

 おのれ、全員解雇してやろうか。

 と明後日の方向に不穏な考えを飛躍させ始めた主を止めるべく、侍従が冷静に声を掛ける。


「セイディさま」


 しかし声を掛けた相手はセイディだった。


「とっと!」


「はい、あなたのトットが馳せ参じましたよ。しかしながら、今は主さまのトットとして現れました。どうやら主さまが、セイディさまにお相手をして貰えずに拗ねていらっしゃるようなのです。そろそろいつものようにご一緒に走ってあげてはいただけませんかね?」


 沢山話すと、セイディはまだ言葉を追えない。

 でも全部聞いているのだと、トットは信じている。

 聞くより話す方がずっと難しいと医者も言っていたし、育児書にも書いてあったから。


「とっと、はせ……る!あるじさまのとっと?」


 馳せ参じるはどうしても言えないセイディの頭をジェラルドが愛おしそうに撫でていた。

 トットの存在を無視したいのだろう。


 侍従もまた主を無視するように、セイディにだけ語った。


「いつでもトットは、セイディさまのトットでありますよ。でも主さまのトットでもあるんです。セイディさま、主さまが寂しいんですって。構ってあげていただけますか?」


「あるじさま、さびしい?」


「トット。先からおかしなことをセイディに吹き込むな」


「おや、主さま。寂しかったのではありませんか?」


 セイディがジェラルドを見た。


「るど、さびちい?」


 ついさっき言えたはずの言葉が言えなくなってしまうことがある。

 成長の過程だろうと、医者はこの件を大きく取り合わない。

 そのうち流れるように話す日が来るから、今は拙さを愛でておけという話だ。


 うっと一瞬息を止めたジェラルドは、なんとか冷静を装い──侍従から見ればまったく蕩けた顔を隠し切れていなかったけれど──、「そうだね、寂しかったな」と返すことに成功する。

 するとセイディはもう一度。


「るど、さびちいかった」


 なんて可愛いらしいのだ!と心の中で叫ぶジェラルドは、彼としては冷静を装っているつもりでデロデロの怪しい笑顔で言った。


「うん、セイディ。寂しいんだ。私と遊んでくれるかな?」


「あそぶ……いっしょはしる!」


「あぁ、そうしよう」


 と言ったまでは良かったのだけれど。

 すぐさま抱き上げようとしたジェラルドに、セイディは拒絶を示したのだ。


「ないない」


「どうした、セイディ?」


「せいでぃ、はしる」


「そんなっ」


 悲しみに飲まれ放心するジェラルドの背中が叩かれる。

 結構な痛みにジェラルドは我に返った。

 侍従からの扱いがおかしいぞと思う彼にさらにおかしな声が掛かる。


「ご成長です主さま。大人として喜びましょう。受け入れられますね?」


「分かっている。そうか、うん、セイディも自分で走りたかったね。では手を繋いで一緒に走ってみよう」


「せいでぃ、いっしょはしる!」


 それは今までと変わらぬ言葉だったけれど。


 ジェラルドに手を引かれたセイディは、庭を駆け抜けた……つもりになった。



 セイディが成長するために必要な課題がまた新たに見付かった瞬間である。


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