105.忘れたままに


 目が覚めて、不思議といつもより視界が晴れているように感じたわ。

 周囲が明るかったのよ。


「今日はなんだかすっきりしているわね。空が晴れたのかしら?」


 目を細めたのは、眩しかったからではないわ。

 何もない部屋の床に寝ていたことが分かったから。


 わたくしが床で寝るですって?


 それも毛布ひとつもないのよ?



「何なのよここは」



 昨日までのことを思い出そうとしたわ。


 なのにどうしたのかしら?


 何も思い出せないの。



 でも……。



 急いでしなければならないことがある気がするわね。


 うぅん、違うわ。


 急いでどこかへ行かないといけない気がするのよ。



 そう。ここではないところへ早く。



 その人がいる場所に早く──。



 !!!



「私ったら、どうして呑気に寝ていられたのかしら?」



 こうしてはいられないと、部屋の様子を改めて確認したわ。


 なのにないのよ。


 本当に何もないの。



 ナイフがないなら、フォークでいいわ。


 そうね、花瓶でも出来そうよ。


 昔、棚から落として、割れた破片を見たことがあるもの。



 ドレスを裂いて?


 その方法も知っているわ。


 でもそれは最終手段ね。



 わたくしは、同じがいいの。


 あの方と同じようにここを去って追い掛けるわ。



 だから呼び鈴を探したのに。


 この部屋にはそれさえないのね。


 声を出せば侍女を呼べるかしら?



 まぁ、窓もあんなに高いところにあったわ。


 扉はどこなのかしら?


 わたくしがここにいるのだから、扉くらいはあるわよね?



「姫様?今日はお分かりですか?」



 急に声を掛けられて振り返れば、小窓の向こうに人がいたわ。


 さっきまでここに窓はあったかしら?



「ちょうどいいわ。あなた、ナイフを持ってきて。あの方と出来るだけ同じものよ。そういえばあの方の使っていたナイフはどうしたのかしら?それが一番いいわね。あなた、分かる?」



 反応が遅いわね?


 言われたらさっさと動くか答えなさいな。



 私がそう口にする前に、小窓の向こうの女は目を伏せて微笑んだわ。



 何なのかしら?


 気味の悪い女ね。



「わたくしとても急いでいるのよ。分かるわね?」



 そう言ったのに女はゆったりと二度も頷いて、まだ動かなかったわ。



 あなた侍女よね?


 嫌だわ、侍女を躾けている暇なんてないのに。


 わたくしは急いで行くところがあるの。



「その前にどうか、どうか。こちらをお読みください。王妃様……お母上様よりの姫様へのお手紙にございます」



 わたくしが欲しいのはそんな紙切れではないわ。


 でも侍女は読んで待つようにと三度も繰り返してから去って行ったの。


 わたくしに命じるなんて、なんて礼儀を知らない侍女なのかしらね?



 あんな侍女、わたくしの側にいたかしら?



「……お母さま?」



 仕方がないから読んで差し上げましてよ。



 とても短い手紙だったわ。


 わたくしが娘で良かったと書いてあるだけ。


 あとは最後のお願いを聞いて欲しいそうね。



 どうしましょう?


 わたくし、あの方と同じがよろしいと思うのよ。



 なんでも一緒にするものでしょう?



 一緒……?



 そういえば、あの方はどうしてわたくしと一緒にいないのかしら?


 あの方はあのとき……。




「姫様、大切な御方にはより美しいお姿でお会いしとうございませんか?」



「わたくしはいつも美しいわ!」



「えぇ、えぇ、存じておりますとも。美しい姫様がより美しくなられました最高のお姿にてお会いしては如何かと思ったのですよ。最後に髪を結わせていただいても?」



「……構わないわ」



「王妃様の仰るようになさいませば、姫様はお綺麗なお姿のまま、大切な御方にお会い出来ましょう。王妃様がウェディングドレスもご用意してくださいましたからね。是非お着換えくださいませ。姫様の晴れ姿はそれは美しいことでしょうねぇ。ばぁやはこれを見届けに参りましたよ」



「ばぁや……あなた、ばぁやなの?」



「覚えておられましたか?」



「えぇ、そうね。言われて急に思い出したわ。あなたはばぁやだわ。どうして……すぐに分からなかったのかしら?」



 ばぁやはわたくしが産まれる前から、わたくしの側にいた侍女の一人よ。


 元々はお母さまの侍女をしていたそうね。


 だけどいつからか……そうよ、いくつだったか忘れてしまったけれど。


 腰を痛めて仕事にならないからと、勝手に暇を出して……。



「あなた腰は大丈夫なの?」



「姫様にご心配いただけるなんて、ばぁやは幸せものですね」



「聞いたことには答えなさいよ」



「えぇ、えぇ、ばぁやはたっぷりとお休みを頂いたおかげでこうして元気になりましてね。姫様を一等美しく輝かせる有難きお役目を王妃様より承りましたよ」



「そう……髪はまだかしら?」



「特別にお綺麗にしておりますから。どうかあと少しばかりこのばぁやにお付き合いくださいませね」



 ばぁやは手を動かしながら、昔話を始めたわ。



 わたくしがはじめてばぁやの手を握った日ですって?


 わたくしがはじめて立った日?歩いた日?


 そんなもの、わたくしが覚えているわけがないでしょう?


 なのにどうして覚えておりますか?なんて聞くのかしらね。



 それにどうして声を震わせているの?



 変なばぁや。



 お世話が出来て幸せですって?



 あらそう?


 ならこれからもお願いしてもいいわ。



 まぁ、どこまでもわたくしと一緒ですって?



 困ったわね。


 あの方は二人だけがいいと言わないかしら?



 ばぁやは邪魔をしないから大丈夫ですって?



 そう、それなら一緒に来てもいいわ。


 これからもわたくしの世話をなさい。




 ドレスに着替えると、小窓からお菓子と紅茶を差し出されたわ。


 そういえば、ばぁやはどこからこの部屋に入って来たのかしら?

 

 よく分からない部屋ね。




「美味しく旅立つのもよろしいではありませんか」



「そうかしら?」



 あの方と同じでなくて本当にいいのかしら?



 あの方は……あの方は……どうして?



 ねぇ、どうしてわたくしの側にいないの?



 ねぇ、どうしてわたくしを置いて行ったの?



 ねぇ、どうしてそんなに泣いていたの?



 ねぇ、どうしてわたくしを睨んでいたの?



 ねぇ、ようやく分かったのよ?


 

 わたくしあなたに会うために生まれてきたの。



 ずっと探していたあなた。



 あなただって同じ気持ちだったでしょう?



 なのに置いて行くなんて許さないわ。



 王家が何?


 わたくしの知らないことよ?



 ねぇ、あなた。


 まずはわたくし、怒ってもよろしいかしら?




 ねぇ、あなた……。



 あなたはどこ?



 待って、わたくしあなたの身体を置いては……すべて一緒がいいのよ?


 ねぇ、あなた……あなた……。



「そう、よ……つがいは、いいもの…………しょう……ねぇ、あな、た…………」






「本当に、獣とは何が違うんだろうな。年中盛っているんだから、獣より性質たちが悪い。この世で最も穢らわしい生き物だよ。あぁ、汚い、汚い。醜くて汚いな。ようやく解放されて清々する」



 何もない部屋にその声が響いたとき。

 美しい色をしていた瞳には、もう何も映ってはいなかった。



「ちゃんと躾けてやれなくて残念だったよ。だけど二度と王家には……いやこの世には、生まれてくれるな」




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