90.香りの効能


 セイディが気にした香り。

 そこに何か深い意味があるとは、ジェラルドとて思ってもみなかった。


 せいぜい犯人捜しの際に、弱い証拠として使える材料のひとつ。

 その程度の認識である。


 かつて同じ香りを嗅いだ。

 いくらセイディがそう主張したところで、セイディの幼さがすでに露呈した今、それは証拠としてはあまりに弱い。

 記憶違いと言われたらそれまでであったし、その香りが王女専用のブレンドされたものだったとしても、似た香りを使用していた人間がいないと証明することは困難だった。

 実際王女も、尋問の際には、セイディの記憶違いだと言って騒いでいた。

 王女の態度は忌々しいものではあったが、ジェラルドだって同じ状況で責められるようなことがあれば、やはり同じことを主張していただろう。


 だからジェラルド自身、香りについてそれ以上のことを期待してはいなかったし、調査をせよと命じることもなかったのである。


 この件はすっかり父親たちに任せようと甘えた理由も大きかったが。


 何もしなかったジェラルドとは対照的に、レイモンドは動いていた。

 セイディが気にした時点で、父親には何か引っかかることでもあったのだろうか?

 それとも単に念のためにと調べさせただけか。


 いずれにせよ、爵位を譲られようとも、父親にはまだまだ及ばないことをジェラルドは実感する。

 それでもまだレイモンドの考えを少しでも予測しようと試みた。


 レイモンドがわざわざここに原液を用意して、しかも触れるなと説明した意味。


 毒薬ではないとしたら?

 番に関係するものだろうか?


 しかしそんな香油の話をジェラルドは聞いたことがない。


「セイディちゃんのお手柄だね。私たちでは他者の香りには興味がいかんだろう?」


「そうですね。まったく覚えていないので、一度くらいは嗅いでおきたいところですが」


 興味を持って小瓶を眺めるジェラルドに、レイモンドはやはり首を振るのだった。


「やめておけと言っている。それは私たちの本能的なそれを抑える効能があるようでね。どうやら隣国では裏で出回っているそうなのだ」


 番の衝動を抑える……?

 ジェラルドは、信じられない気持ちで小瓶を見詰めた。


 今ここでこれを嗅いでしまったら、自分も父もどうなってしまうのだろうか。


 だが何かと分かれば、不思議に思うこともある。

 先日の葬儀のときに、セイディだけでなく、自分も、そして両親も、この香りを嗅いでいるはずではないか?


「薄めたものをほんの短い時間に嗅いだくらいでは、影響が続くものではないようでね」


 ジェラルドは記憶を辿った。

 何度か王女と接近したことはある。


 だがやはり香りの記憶はない。


 ただひとつ、香りと言えば思い出すこともあった。


「もしや番の香りを消すあれは、この原液から生成されていたというお話ですか?」


 十年間。

 セイディを追い掛けたジェラルドは、何度あれに心を掻き乱されてきただろう。

 やっと見付けた僅かに残る番の香り。

 それがあるところから急に途絶え、行方を追えなくなるのだ。


 しかしジェラルドのこの推測は、あっさりと否定されることになる。


「いや違う。あれも忌々しいものだが。あちらは消臭剤の一種だ。これは嗅覚から私たちの特性自体へと働き掛ける」


「嗅覚から……しかしおかしくはありませんか?」


 ジェラルドはまたすぐに気が付いた。

 もし王女がこれを使用していたとして、ならば今回の結果はおかしい。


「うん、それがこの香油の難しいところでね」


 レイモンドは知り得た情報を息子へと共有していく。

 それはジェラルドの予想をはるかに超えた、壮大な話に続く布石に過ぎなかった。







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