112.壊れた獣


 楽しいかと問われた男は、それを鼻で笑った。


 獣など、いくら壊そうと屠ろうと。


 何を感じるものがある?


 男は本気でそのように考えているのだ。

 たった今、下品に目尻を下げて、かすかに鼻の穴を膨らませ、すっかり口角を上げている、そんな自身の顔には決して気付けず──。


「そうですか。よく分かりました」


 男は何も言っていないのに、声は満足そうにそう言って。


「私たちはとても優しいので、どうかご安心くださいませね?関係ない方々への分までは徴収しようとは考えてはおりません。とりあえず十年分、利子付きでお返しするということで、お二人様からもお約束いただきました。これからたっぷりと楽しませていただきますね?ねぇ、第三王子さま」


 十年。


 ようやく男は気配のない声の主を確定出来た。


 男は今や方方ほうぼうから恨まれている。

 なんならここにいる声の主。そいつらの方が恨みの程度は薄いと言えるくらいのことをしてきた。


 アルメスタ家当主の番は、生きて返してやったのだから。

 それは第三王子であるこの俺に感謝して欲しいくらいで──元?


「元と言ったな?俺の処理はどうなっている?」


 回らない頭で男は何気なく聞いていた。


 逃亡して身を隠し、ほとぼりが冷めた頃。

 偶然手に入れたこの便利な建物は使えるだろうか。


 これを知りたかったのかもしれない。


 逃げた男がまさか戻って来るとは思わないだろう。

 という浅慮な計略もあっただろうか。


「おや、まだお喋りを続けたいと。そうですねぇ。本日は初回ですから、特別ですよ?」


 声は一段と愉悦を含んだ。


「十年後に突然に戻られても困るでしょう?ですから第三王子さま、いえ、もう第二王弟さまと言った方がよろしいでしょうか。その方にはこの世から消えていただくことになりました」


 決定に不満はなくも、知らせておいてくれたら良かったのにと、男はまた嘆く。


 そうすればあえて捕まり、アルメスタとの約束を果たしたあとに、逃げる手筈をもっとよく準備しておけたではないか。

 いや、それよりも。

 本当に儚くなったことにしていれば良かったのだ。

 罪の意識に心を病んで──とでも説明すればいい。

 捕まる前にはよくあることだ。

 背格好の似た遺体でも用意してアルメスタ家を納得させ、早いうちから彼らと共に行動し。


 そしてアルメスタを潰す。

 

 それが最良だったのではないか?


 逃がしたあの獣も、捕え損ねた対の獣も、そうすれば俺の手で人間にしてやれたのだぞ?



 いや、まだだ。


 声の主がここにいるということは。



 俺の手でいつでも獣たちを狩れる状況を得たということ。



 あぁ、そうだ。

 あの甘い兄上たちに、王とはなんたるかを教えてやろう。



 獣の配下にいる奴らなど。


 こいつ自身も獣に違いない。


 そうだ、獣だ。


 獣ならば、狩るのは簡単。



 あの子どものように。


 時間を掛けて躾けて楽しむのもいいだろう。


 最初は大人しく捕えられた振りをして──。



 あぁ、いいな。


 とてもいい。



 こいつの前で、醜く穢れた汚い獣たちを屠ってやれ。



「これはいけませんね。早々にお喋りは終わらせましょう」



 男の首筋に生温かいものが流れていって、それが襟から服に沁みていった。


 不思議と痛みはなく。



 鼻に届く甘ったるい独特の香りが、ここにきて一段と強まっているように感じられる。


 いつだって嗅いで来たそれは、虚ろな男の目に過去を生々しく映し始めた。




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