9.公爵は走りたがる
今日もアルメスタ公爵はセイディを連れて庭に出ていた。
最近少しセイディの表情が和らいできたように感じて、アルメスタ公爵は一人先に喜んでいる。
まだ周囲が気付かないほどの、ほんの少しの筋肉の緩み、それを感じ取っていたのだ。
「もう少ししたら、走ることも出来るだろうと言っていたね。楽しみだね、セイディ」
セイディは細かく刻んだ鶏肉を丸めて作った団子入りのスープを食べられるようになった。
お肉はセイディにとってご馳走となったようである。
それからスープに浸したパンも一緒に食べている。こちらもセイディのお気に召したようだ。
そしてついに、生クリームを乗せたプリンを器にひとつ完食出来るようになった。
その喜びは、いつもより一段と輝いた瞳がアルメスタ公爵に伝えている。
今朝セイディを診察した医者は、心の方はともかく、身体は順調に回復していると言っていた。
もうしばしすれば、子どものように駆けて遊んでもいいとのこと。
そんなセイディは今日も手を引かれ庭に立ち、アルメスタ公爵をじっと見上げる。
アルメスタ公爵は何も言われていないのに破顔した。
「走るが分からないか。よし、トット。そこを駆けてみろ」
「はいは……え?」
いつも急にどこからか現れるトットに、セイディはどうしても慣れないようで、半歩身を引きアルメスタ公爵の影に隠れようとした。
こういう動きが出て来たのも、心が回復している兆候らしい。
嬉しい、楽しいといった陽の感情だけが人間に必要なわけではない。
恐れ、不安、怒り、そういった負の感情もまた心の成長に必要なものだから、そのような感情の片鱗が見えたときには、先回りして原因を排除せず、出来るだけそのままの感情を引き出してあげなさい。
医者はこうアルメスタ公爵に助言している。
言っておかないとどうなるか、セイディが足腰を弱めた件から彼の性格をよく察しているのだろう。
ただでさえ本能が暴走しやすい番相手だ。
そんなわけでアルメスタ公爵は、セイディが驚いた様子が感じ取れて嬉しくて、そしてまた自分に隠れようとするところが可愛くて、蕩けた目をしてセイディの頭を撫でるのだった。
そしてそのまま侍従に言う。
「お前まで走れという言葉を知らなかったとでも言う気か?」
「私でいいのかと思っただけですよ。よろしいのですね?」
「他に誰がいる?」
「承知しました。ではトットがゆっくりと走りますので、セイディさまもご覧ください。走ると、駆けるは同じですよ!今から私は走りますし、駆けますからね」
混乱させることを言うなと、アルメスタ公爵は眉をひそめた。
何もすぐに二つの言葉を同時に教えることはないだろう。
それに言葉を教える私の役目を取るな。
本音は後者であるアルメスタ公爵を放って、トットは走った。
それはゆっくりとだ。
本気で駆けたら、セイディの目には映らない。
すぐにアルメスタ公爵は発言を後悔し、先ほど侍従が言わんとしたことを知る。
「やめだ、トット。私が走る」
アルメスタ公爵はすぐさま上着を脱ぐと、足を止めたトットにそれを預け、「セイディ、私が走るからな!」と言って駆け出していく。
番の側を離れてまで、何を張り合っているのだろう?
トットは主に呆れていたけれど、どこか誇らし気だ。
だから言わんこっちゃない、とでも思っていたのかもしれない。
「どうだった、セイディ!」
すぐに駆け戻ったアルメスタ公爵はセイディに問う。
そして間を空けて今度は鷹揚に頷くと、セイディの頭を撫でた。
「楽しめたみたいだね。そうだ、セイディ。次は一緒に走ろうか」
アルメスタ公爵をじっと見詰めるその瞳が期待の輝きに満ちた。
アルメスタ公爵は、軽々とセイディを抱き上げると、いつもより早足で歩き出す。
強い振動を与えまいと気を遣うあまりにただの早足でしかなかったが、セイディの瞳は嬉しそうだった。
びゅんびゅんと流れる視界を懸命に追っていると、やがてあの庭師のまとめ役の男の頭が見えた。
すると流れていたものがセイディには止まって見える。
光をよく照り返す頭は、素早く過ぎ行く視界の中でもゆるぎない存在感を放っていて、誰が見ても分かるほどセイディを夢中にさせた。
トットが握った拳を口元に持っていったのはどうしてだろう?
やがて足を止めたアルメスタ公爵は聞く。
「気分が悪くなって……ないね。良かった」
セイディはじーっと間近にあるアルメスタ公爵の瞳を見詰め、小さく口を開いた。
「せいでぃ、はしる」
アルメスタ公爵は陽光の下で破顔する。
「そうだね。一緒に走ろう……もしかしてもう一度かな?」
「いっしょはしる」
「あぁ、そうだね。もう一度一緒に走ろうか!」
アルメスタ公爵はこの日広大な庭を二周もしていた。
抱えられていたセイディは何にも疲れない。
陽が落ち掛けた時間まで外にいたことのなかったセイディは、赤く輝く頭皮に夢中だった。
セイディがお喋りな子どもになるまで、もう少し。
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