92.願わくはどうか


 これからはセイディに沢山の幸福を。

 そしていずれは番としても──。


 ジェラルドがそのように考えていた頃。

 

 父親もまた小瓶を見詰めてしばらく黙り込んでいた。


 似たような顔の造形をして、同じように顎に手を添えて考え込んでいる姿はさすが親子、とてもよく似ていたけれど、このときレイモンドの考えていたことは息子のそれとは正反対の質にあるものではなかったか。

 いつも温厚そうに見える彼には珍しく、その表情に昏い影が差していたから。


 不意に顔を上げると目が合った二人。

 それが合図だというように、レイモンドが沈黙を破った。


「隣国では多くが番を知る前に使っていると言ったね。だが奇妙なことには、彼らのほとんどがその後に番と出会っているんだ」


「……つまり、番を知る前に生じる衝動を抑える効果しかないということですか?」


「それがまだ分からないところでね。番と出会っていないのに気分が良くなる時点で、本能的に常に知るはずの番の存在を忘れているとも言えるだろう?」


「……香油を嗅いできた者には分からず、相手側から見付けて貰えたという話では?」


「それも考えたけれどね。互いに香油を利用してきた者たちも、その後に知り合って番同士だと認識し合っているのだよ。こうなると、効果の程も分からなくなってねぇ」


 ジェラルドにも、さっぱり分からなくなった。

 怖れはあれど、ここで嗅いでしまえば話が早いのでは?と一瞬小瓶に手が伸びそうになる。


 嗅いだあとにも番を番として認識出来るなら。

 それはそう恐れるほどのものではないとも受け取れた。

 それに短時間に少しくらい嗅いだところで影響は続かないとも言っていたではないか。

 ならば薄めさせて……。


「今、調べさせているから落ち着きなさい」


 動きはしなかったのに何故分かったのかと、顔を顰めるジェラルド。

 いい歳をして、親に叱られた気分だ。



 香油の調査が難航していることには、数々の理由がある。

 隣国に表立って協力を願える状況ではないことがそのひとつだと、レイモンドは説明した。


 王女のそれが、正式なルートから調達されたものであったなら。

 隣国に事情を聞くことは簡単だった。


 だが実際はそうではなかったのだ。


 それも当然といえばその通りで。

 表では禁じられ、秘密裏に取引されている香油など、他国に輸出、それも王族に引き渡すような愚行を、隣国の王家がするわけがない。


 ではどこから王女はそれを手に入れたのか。


 そこでまたしてもユーリルの名を聞くことになろうとは、語るレイモンドだって事実を知るまでは思ってもみなかったこと。

 ジェラルドもまた、これを聞いて驚愕する。


 王女の香油の仕入れ先は、ユーリル侯爵家所縁の商会だった。


 まだ残る商会の関係者から聞き出せたところによれば、彼らはそれを正規ルートで仕入れたものとして認識していた。

 王女様専用の特別な香油の原液として厳重に扱ってはいたが、隣国で裏に出回っているような危うい品物であることは知らなかったという。効能についても然りだ。

 他者への販売はしていなかったが、それも王家からの許可が下りなかったことにより王女様御用達の冠を掲げて売ることが叶わず、けれどもいつかは許可が下りたときに特別な品としての儲けを得るためで、他に理由はなかったと言い切った。

 今のところ、これが嘘だと疑える点はなく、仕入先の関係者からも話を聞くことは出来ているが、そちらの主張とも一致している。


 こうなれば、その先のまた先の……どこまで辿れば真実に辿り着けるかは分からないが、調査の難航は目に見えていよう。

 いくら優秀な人間が揃うアルメスタ家とて、隣国まで足を広げた調査となれば時間は掛かる。

 そして王家があの通りでは、国の力も役に立ちそうにはなかった。


「王女が今も生きていることを踏まえれば、長年の使用による影響は強く残っていると考えられるね?とすれば、香油を利用してきた隣国の者たちだって、はたして番と出会ったあとに我々と同じ程度の幸福を感じられているかどうか。怪しいものだと思わないか?」


 確かにそうだと思ったジェラルドは、やはり小瓶には触れたくもないと考えを改めた。

 やっと取り戻した、いや新しく得たこの幸福を、もう二度と手放す気はないのだから。






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