2.番に求めるもの
「まずはこの場所がいかに安全で、心を動かせば咎められるどころか喜ばれる、そういう認識に変えていくしかありませんな」
「それは尽力しているが……」
安心して欲しい。ここには君を害する者は存在しない。そんな者がいれば自分が排除する。
もう何十回とアルメスタ公爵は言葉を変えながらその意を伝えてきたが、彼女は変わらなかった。
いつも食事のときにほんの少し目に光が宿るだけ。
今のままでは、彼女は何も変わらないのではないか。
アルメスタ公爵は焦っていた。
「とある実験がございましてな。誰にも声を掛けられずに育てられた赤ん坊は、長く生きられなかったという結果が出ています」
「なんだと?」
「落ち着いてくだされ。これは酔狂な貴人が赤ん坊に行った実験の話です。しかしおおいに参考にはなりましょう。ただ世話だけをしていても、子は健康に育たないということです。十分な母乳を与え、おむつを変えていてもこうなりましたからな。赤ん坊が心身ともに健康に育つためには、声掛けというものは重要な役割を持つということです」
もしも彼女が赤ん坊の頃に奪われていたらどうなっていたか。
考えるだけでも、血の気が引いてしまうアルメスタ公爵だった。
「私が言いたいのはですな、赤ん坊を一から育てる気持ちで、接してみてはどうかということです。もちろん過度に子ども扱いをする必要はないのですがね。言葉を返さない赤ん坊に対して、何故何も答えないのかと慌てる者はおりますまい。同じような気持ちで、番さまに接していくとよろしいのではないかと」
アルメスタ公爵が頷いたことを確認し、医者はさらに続けた。
「もうひとつ気掛かりな点は、言葉の発育についてです。まだ私は番さまのお声も聴けぬようですから、実際のところの程度は分かりませんが。番さまのお育ちになられた環境を考えますに、言葉の発育も止まっているやもしれません」
アルメスタ公爵は何も言えなかった。
それが十分にあり得ることだったからだ。
口を開けろ。飲み込め。
嫌々ながらアルメスタ公爵が命じれば、言葉通りに動いたからには、それらの言葉は理解しているのだろう。
だがはたして掛け続けてきた優しく甘い言葉のどれもを理解しているか、それははっきりしていない。
だから無反応だった、ということは十分に考えられる。
「一から育てる気持ちでか……。トット」
「はい。すぐに周知いたします」
自分が一人語り掛けるよりは、皆でそうした方がいいと、アルメスタ公爵は判断した。
使用人らは通常口数少なく働くものだが、今日からこの邸で働く使用人たちは変わるだろう。
「他にすぐに出来ることはないだろうか?」
医者は声を落とし、諭すような口調に変えて、アルメスタ公爵に言った。
「急がぬことです。これだけ長く心を動かさずに来たのですから、急いではかえって心の負担になってしまうでしょう。まだスープしか飲めぬ身体と同じように考えなされ」
医者はそこで一度間を空け、また言った。
「お気持ちが分かると言っては、大変失礼に当たることは存知ておりますが。ここはどうかひとつ頑張って耐えてくだされと進言したい」
「分かっている」
苦虫を噛み潰したように顔を歪めたアルメスタ公爵は、それでも医者の本意を分かったうえで、すぐに答えた。
と同時に、この焦りは誰のためであったのか、と考えてアルメスタ公爵は自嘲する。
失って十年。
見付けてすぐに寝室に連れ込んで、ひと月も部屋から出て来なかったとしても、アルメスタ公爵を責める者はないだろう。
番の習性とは時に暴力的な衝動を与えるものだと知れ渡っている。
しかしアルメスタ公爵は、自らの意志だけでその衝動を自制した。
十年もアルメスタ公爵が求めていたそれにはならないと分かってしまったから。
肉付きの悪い骨と変わらぬ身体は、背も低く、発育が遅れ、少女のよう。
だがそれは外見だけの問題ではない。
アルメスタ公爵がもっとも受け入れられないものは、アルメスタ公爵を見ても、なんら動かなかったあの瞳だ。
「心を失えば、番としての本能も消えてしまうものだろうか」
答えを知るのは怖くも、アルメスタ公爵はついに医者に問い掛けた。
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