3.壊れずに済んだ過去

 彼女は確かにかつて自分を慕っていた。


 幼子ではあったけれど、明らかに他人のそれとは違う感情をまだ自身も幼かったアルメスタ公爵に向けていたのだ。


 乳飲み子のときから、彼女はアルメスタ公爵が現われると泣いていても笑顔になった。

 動けるようになれば、アルメスタ公爵の後を真直ぐに追い掛けた。

 番の本能とは、思春期に入らずとも生まれたときから備わっている感覚だ。


 だから会えば、彼女も涙を流して喜んでくれる。

 それは期待を越えて、現実と変わらないものだった。


 あの光のない瞳は、再会に喜び泣いたアルメスタ公爵の心を十分に抉っている。



「申し訳ありませんが、それについても断言出来ることはございませんな」


 番の本能を持つ者が少なくなっている今、経験豊富な医者でも、番の本能が消えたという結果を目にしたことはなかった。

 だから医者は、推測の域で語る。


「人はどこにあっても安全に生きるために必要な言動を学習します。それが人の指示通りに生きることだったと想定すれば、自分の気持ちで生きることに蓋をしてしまってもおかしくはありません」


「番の感覚も自分の気持ちとして蓋をしたということか」


「あくまでひとつの可能性にございますよ。それからお伝えした通り、情緒は育ちますゆえ」


「心が戻れば、番の感覚も戻って来る──期待しておこう」



 望んだ答えは得られなかったけれど、希望を失わずに済んだことに、アルメスタ公爵はほっとした。

 番の感覚、この喜びを、彼女と共有出来ない未来は想像したくない。


 出来れば共に喜び、そしてお互いに愛を──。



 ここで急に医者が笑い始めた。


「ふぉっふぉっ。公爵様の斯様なお顔を見られるようになりますとは。長く医者をしておりますが、まだまだ続けていこうと思えましたなぁ」


 急に気さくに話し出した医者に、アルメスタ公爵もその眦を下げた。


「貴殿には世話になった。改めて礼を言う。今回も急に呼び出してすまなかった」


「ふぉふぉふぉっ。有難く受け取りますが、それが私の仕事ですから本来は不要ですぞ」


 番を手元から失ったとき。

 アルメスタ公爵──実際は彼がまだ公爵になる前の話──は、心を病んだ。

 しかしそれでも生きられたのは、完全に失っていないと、それこそ番の感覚が知らせてくれたからである。


 居場所を掴めなくとも、彼女が生きていることはアルメスタ公爵にとって確信だった。


 もしも番を完全に失っていたら──。


 アルメスタ公爵は廃人となり、公爵位にもつかずにひっそりとこの世から儚くなっていたに違いない。

 番の習性は、人格さえも容易に破壊してしまうものだから。



 それからアルメスタ公爵は、しばし精神を支える薬に頼りながら、番を探し続けた。

 国中を巡るついでに仕事を行うようになったのは、探し始めてしばらくしてからのこと。


 番は香る。


 あるときから、その残り香を感じ取るようになった。


 誰かが意図的にアルメスタ公爵に番の存在を知らせ、そして隠している。

 それが分かって見付からないもどかしさ。


 だから予定を偽ることにした。


 公けにはこの地に行くと発表しておきながら、実は別の地に。

 内側にも配慮して、使用人や親族など誰か一人に嘘の予定を伝えるということも重ねた結果、残り香が濃くなるようになったのだ。


 誰かが逃げるように去っている。

 追い詰める感覚に変わっていくと、アルメスタ公爵は薬に頼らず正気でいられるようになった。



 それは先日のこと。

 国内で最も遠い領地の視察を発表したアルメスタ公爵は、真逆の地へ行こうと考えていたのだが。

 なんとなく気が変わって、しばらく王都に滞在することにした。


 アルメスタ公爵が不在だろうと、公爵家の邸もある王都には、なかなか近寄ることが出来なかったのではないか。

 遠方への視察となれば、ぞろぞろと人を連れて行き、主不在となった公爵邸は人が手薄になると予想したのかもしれない。


 彼らはついに判断を誤った。


 とはいえアルメスタ公爵とて、まさかこんなにあっさりと王都で彼女を見付けることになろうとは。

 思ってもみなかったことである。



 彼女はとある侯爵家の抱える商会の、取引先の商会の、さらにその取引先の小規模な商会に匿われていた。

 もちろん関係者の事情聴取は済んでいて、その末端の商会が彼女の素性について何も知らされていなかったことは分かっている。

 そこの商会長は、上の組織の命令に従って、彼女を連れて仕入れなどと称して各地を転々としていただけだった。



 彼女を生かし続けた理由は明確。


 アルメスタ公爵を完全に壊したくはない誰か。


 国外に出さなかった理由も容易に想像することが出来た。

 万が一にも番の習性で居場所を悟られ、アルメスタ公爵が国外に出て行かれては困ると考えていたからに違いない。

 だからこそ、残り香を追わせるようなこともした。



 されども彼女を奪い隠したのは侯爵家ではない。

 それもアルメスタ公爵は把握している。


 おおよそ睨んで来たとおり。


 しかし相手はなかなか尻尾を出さなかった。

 今回の調査でも、まだ繋がりが見えないくらいだ。


 人を介して介して……巧妙に関わりは隠されている。




 幸福から突き落とされて十年。

 自身の心を壊し掛け、番の心を失わせた十年を、アルメスタ公爵は許さない。





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