4.アルメスタ公爵家の事情
「セイディ。全部食べられて偉かったね」
アルメスタ公爵は、番の頭を大事そうに撫でながらそう言った。
声掛けと共に触れ合いが大事であると、何冊も読んだ育児書に同じように書いてあったからである。
アルメスタ公爵は今、すべての時間を番に使う。
頼まれていた仕事もすべて放り投げていた。
これを咎める者はやはりいない。
爵位を譲られているが、先代公爵夫妻、つまりはアルメスタ公爵の両親は健在だ。
権限を使うために公爵位を譲られているだけで、息子が自由に動き回れるようにと、先代アルメスタ公爵夫妻は領地経営のすべてを執り行っている。
だからアルメスタ公爵は、公爵でありながら自由人だった。
なんなら次代として厳しい教育を受け、その後も当主を手伝いながら、次代となるべく学びを続ける令息令嬢たちの誰よりも、両親に甘やかされて生きていると言えるだろう。
だが番を見失ったと聞いた者は、先代公爵夫妻の息子への溺愛振りをさもありなんと受け入れた。
番の感覚を知る者は少なくなってきている今でも、番を失うことがどういうことかは知れ渡っているからだ。
しかも彼の両親は政略結婚ではなく番同士で、番への理解が深い。
幼くして番を見付ける幸運を得た息子に、アルメスタ先代公爵夫妻はおおいに喜び、息子の幸せを祝った。
かつては万人が持っていたと言われる番の本能も、今では少数派の特性に変わっている。
そんな現代では貴重と言えるその番の本能を、生涯使用出来ずに終わる者のなんと多いことか。
番と過ごす時間は彼らに珠玉の幸運を与えるが、番に出会うまで彼らはずっと足りない感覚を持って生きなければならない。
それは番の本能を知らずにいる者たちと比べれば、はるかに彩りのない人生を歩むことを意味していた。
しかしここで番に出会うと、一気にその人生は彩られることとなる。
だから番の感覚を知り、番に出会えた者たちは、この世の果報者と称されるのだ。
幼くして番を見付けたアルメスタ公爵も例外ではない。
当時は天から特別に愛されし子どもとして称賛された。
それはおべっかが過ぎるということもなく、他者にそう言われる前に、アルメスタ公爵自身がそれを感じ取っている。
どこまでもどこまでも底なしに満たされる感覚。
そんな折に、その番を失ってしまったら?
彼は知らなければ幸せだったと誰もがそう言った。
一度は得た珠玉の幸福は、失ったからと言って、それを知らない日々には戻らない。
それからは、アルメスタ公爵に誰もが声を掛けられない日々が始まった。
両親さえも、番と共にある彼らは刺激でしかなく、少年は医者に掛かり公爵家の領地にて療養を始めることとなる。
最初にあった自身を壊そうとする強い衝動が、薬を用いながら、なんとか収まってきた頃。
アルメスタ公爵は番を探す旅に出ると宣言した。
廃嫡になっても構わないとまで言った彼に、両親はむしろ公爵位を譲って、今があるというわけだ。
さっそく番が見付かった連絡を受け取った両親は、息子にどんな仕事も回すなと、アルメスタ公爵に付けている部下たちに言い渡している。
そして遠くの領地で、落ち着いた頃に息子とその番に会う日を、今か今かと待っていた。
番さえ見つかればもう何もかも上手くいっていると、彼らは心から願う。
しかし現実は、そう簡単にことが運んでいない。
「セイディ」
その名を彼女が受け入れているか、それさえ分からない状況だ。
かつて彼女はその名で呼ばれていたが、記憶にあるかどうかも探れていない。
いくら呼び掛けても、セイディの瞳は光を宿さなかった。
だけれども。
「今日もあとでおやつの時間があるよ。楽しみにしておいで」
よしよしと頭を撫でる間に、セイディの瞳に光が宿る僅かな瞬間を、アルメスタ公爵は見逃さない。
食が細く、まだ臓腑の弱いセイディは、相変わらず固形物を食べられていなかったけれど、具のないスープであってもセイディの瞳にはいつも光が灯った。
そしてそれは、味に甘みがあると一段と輝きを増すことに、アルメスタ公爵だけは気付いている。
表情に何ら変化のない様子からそれを感じ取れたことも、番の本能のなせる技であろうか。
最初に彼がこれに気付いたのは、甘い芋のスープを与えたときだった。
それからしばらくの間は、日に何度もある食事のうち、二度、三度と同じものを出すよう命じていたが。
その輝きに間違いはないと確信したアルメスタ公爵は、さらに甘味に触れる時間を増やそうと考えた。
その考えに応じて、厨房からはおやつの時間が提案され、僅かな量ではあるが、果物を絞ったジュースや、豆を煮て濾してとろとろにした甘い汁などが、食事とは別の時間に提供されるようになっている。
アルメスタ公爵に他の仕事がない今。
アルメスタ公爵邸に仕える者たちにとっても、セイディを喜ばせることが重要かつ最優先の任務となっていた。
邸の厨房では今日も味付けの研究がなされているし、仕入れ担当者は何か良き食材がないかと目を光らせて商人を迎え入れている。セイディが見るだけで喜ぶ食器はないかと探す者もいた。
皆が皆、合間に育児書を読んでいるのも、見慣れた光景になっている。
一丸となって願うは、セイディの心が戻ること。
アルメスタ公爵だけでなく使用人らも、セイディと会話する日を心待ちにしている。
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