12.公爵は幼児退行する
やっと言葉が出て来るようになったセイディをじっくりと観察した医者は、アルメスタ公爵家が収集した情報と照らし合わせて次のような仮説を立てた。
セイディはこの十年間ほとんど人と会話をしてこなかったせいで、言語能力が退化している。
報告によると、この十年の間にセイディの側にいた人間は、今のところ二人だけだった。
その二人も交代でセイディを見張っていたから、実際にはセイディは常に一人とだけ対峙していたことになる。
しかも彼らは必要最低限しかセイディに言葉を掛けていなかった。
一日に一度もないことは、常だったようだ。
はじめの頃は、彼らも言葉を与えていたのだと証言している。
たとえば、セイディに与えられていた店の仕事は、商品を磨くとか、折り畳むとか、そういった子どもでも出来そうな単純作業ばかりであったが、その仕事のやり方を教え込む間はそれなりに会話をしていた。
ところが覚えてしまえば、あとは商品をセイディの側にどさっと積み上げるだけで、セイディは無言のまま仕事を始めていたという。
他に床を磨くといった掃除などもさせられていたようだが、それも彼らが顎で床を示し、箒や雑巾を与えたら、それで言葉は要らなかった。
食べろ、寝ろ、身体を拭け、といったような生きるための命令も同じく、はじめは説明があったようだが、それも早いうちからなくなっている。
食事入りの器が床に置かれたら食べる、水の張った桶が置かれたら身体を拭く、灯りが消えたら寝る、といったように命令なくともセイディは黙って動いた。
そして背中を見せることも……。
むしろいつもない言葉があったときに、セイディは背中を向けて、痛みを待ったということだった。
その痛みも、実は今、心配されているところで、セイディの痛覚が残っているかどうかまだ医者にも診断出来ていなかった。
背中の治療のときも、転んだときも、痛がる素振りをまったく見せなかったからだ。
痛覚がどうなっているか、それは心を取り戻しながら確認していくことになっている。
何せセイディは痛いという言葉も知らない可能性が高いのだから。
というわけでセイディがアルメスタ公爵の名を一日で覚えられなくても仕方のないことなのだ。
言葉のない世界にいた赤ん坊が、急に言葉の海に投げ出されたようなものだから。
「まぁまぁ、主さま。そのうち呼んでくださいますって。それに昔は一番に呼ばれていましたよね?」
「今の話をしている。そのうちではだめなんだ。急がねばならない!」
「焦っては良くないとお医者様も言っていたではありませんか」
「そんなことは分かっている!私だって焦りたくなどないが……それもこれもお前たちのせいではないか!」
アルメスタ公爵はやっと顔を上げると、ぐるりと皆を見渡した。
公爵家に仕える者として感情を上手に隠せたはずの使用人たち。
どうやらセイディの前で意識して感情を出すようにしていたら、その隠し方を忘れてしまったらしい。
ぎくりと肩を揺らしたり、目を泳がせたり、それぞれ何らかの反応を示していた。
「今日のあれはなんだ!セイディの前だから苦言は控えたが、あんな話し掛け方があるか!それも侍女長まで!」
侍女長はしれっとした顔で平然と語る。
「皆が違う名前を持っていると知ることは、セイディさまに良きことかと思いまして」
「そうですよ、主さま。セイディさまにはこれからも沢山の言葉を覚えていただかないと」
「うるさい。お前が最初に名を呼ばれたから、こうなっているのだぞ?」
「セイディさまは、主さまの真似をされたんですよ。可愛いではありませんか」
「それは可愛いが話が違う!今後は皆、私を名で呼ぶように!」
皆に動揺が広がった。
特別に目を掛けている使用人に、自身の名を呼ばせる貴族は確かにあるが、アルメスタ公爵はあえてそういうことをしない人だったはずである。
だから侍女長は皆を代表して疑問を呈した。
「お待ちくださいませ。急にわたくしどもが呼び方を変えてしまっては、セイディさまが混乱してしまうのではないでしょうか?主さまがこの館で特別な存在であることを覚えていただくためにも、わたくしどもには身に余る栄誉をお与えくださいませんように」
一理あると思ったアルメスタ公爵は顔を顰めた。
だからと言ってこのままでは面白くない。
「それに主さまのお名前は、今後はセイディさまお一人が特別に呼ぶことを許される、尊きものであると認識してございます。違いましたでしょうか?」
侍女長の冷静な声に、アルメスタ公爵ははっとした。
常識や信念などはこの際どうでも良くなっているアルメスタ公爵であったが、セイディが自身にとって特別な存在であることを早く分かって欲しいと願う。
侍女長は畳みかけた。
「セイディさまが覚えやすいように、昔のような愛称を特別にお伝えしてみてはいかがでしょう?」
「それはいい!」
アルメスタ公爵は立ち上がった。
「今日の会議は以上!とにかく今日のような声掛けは控えるように。いいね!」
それは……と言い掛けた侍女長を見ないようにして、アルメスタ公爵はさっさと会議室を出て行った。
当然向かうはセイディの元。
「あ~、今日話すべき議題に触れないで行っちゃいましたね」
トットは残念そうに言ったあと、主人の代理として勝手に話した。
「──というわけで、皆。いつ突撃されても良きよう万全の体勢を整えておくように」
その翌日。
「おはようございます、セイディさま!今、このメアリがカーテンを開けましたよ。いい朝ですね。今日は晴れておりますわ!お外に出掛けられますよ!」
寝起きの世話をしに来た侍女はメアリ。
「今朝のプリンはルースが作りましたよ~!」
わざわざ顔を見せに来る料理長のルース。
「この樹はヘンリー自ら、このように丸く切り揃えたところです。次にお隣の樹もヘンリーが切り揃えてみせますが、セイディさまも見て行かれますね?」
庭に出て来たところに駆け寄ってきた庭師のまとめ役のヘンリー。
この男は目に籠る熱意が凄いが、セイディの瞳はいつもそれより上を見上げていた。
アルメスタ公爵はますます焦る。
セイディが皆の名を面白そうに聴いていることが分かったから。
先を越されるわけにはいかないと、しつこくしつこく一方的な会話のすべてにアルメスタ公爵は自身の名を散りばめた。
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