36.公爵は子育てを経験していた
がばっと顔を上げたジェラルドは、その勢いで立ち上がった……までは良かったが、今度はその勢いを持て余した。
本当は勢いに身を任せ駆け出したい気持ちにあったけれど、目的地に近付くことが恐ろしくて足が動かなかったのだ。
だから自然に顔は俯き、表情は暗くなる。
「酷い顔をして。まったくもう。手の掛かる息子だわね」
「子育ての経験がない分、分からないことも多いのだろう」
「あら?ジェラルドはかつてしていたわよ。だからこれは甘えね」
「そうは言ってもジェラルドも幼かったからね。大人として子育てを経験した私たちが手を貸してやろうではないか」
「仕方がないわねぇ。ジェラルド、レイモンドに免じて、あなたが頭を下げてどうしてもと乞うなら、教えてあげてもいいわよ?」
ジェラルドの顎が上がった。
「母上には息子を労わろうという気持ちが少しもないのですか!」
少年のような顔をして、ジェラルドは母親に不満をぶつける。
されども大きな声を出したところで、ジェラルドの母親はどこ吹く風で微笑した。
「あるわよぉ。でもあなたはもう立派な成人で公爵でしょう?甘やかしてばかりはいられないわ」
「そうだとも。シェリルはね、息子を大事に想っているからこそ、君に厳しい言葉を掛けてくれるんだよ。それを何だね、感謝するどころか、母親の愛を疑い、シェリルに向かって怒鳴るなど」
いつもより低くなった父親の声は、ジェラルドの背中に冷や汗を誘った。
そこに母親の優しい声が掛けられ……た相手は父親である。
「いいのよ、レイモンド。あなたが分かってくれていたら、それだけで幸せだもの」
「そうは言ってもね。君が誤解されていて、黙ってはいられないのだよ」
「うふふ。そういうあなたも大好き」
「私もそういう君を愛しているよ、シェリル」
両親が番同士であるため、ジェラルドは気付けば甘い雰囲気を纏っている両親には慣れていた。
しかし今の沈んでいる心で、これを受け止める気にはなれない。
「父上も母上もそういうことは部屋に戻ってからにしてください!それよりセイディのことです!…………息子の話を少しは聞いてくださいよ!」
見つめ合う両親はそれからもしばらくの間熱い視線を交わし合い、やっとやっと名残惜しそうに息子に向き直って、とてもよく似た笑顔を見せた。
「君にもそういう時期があったのだよ」
「はい?」
急に何の話だと、ジェラルドは眉間に皺を寄せてしまう。
「懐かしいわねぇ。レイモンドが嫌いと言っては、よく泣かせていたわ。あのときはさすがにあなたを叱れなくて困ったのよ」
両親は、たとえ息子でも、番を悪く言う人間に穏やかではない。
まだ小さいから、かつてのジェラルドは紙一重のところで許された。
しかし当時の記憶のないジェラルドは、おおよその意味を予測して不快だと憤る。
「私は嫌いとは言われておりませんよ!」
「ジェラルドよりもソフィアがいいと言われたのでしょう?」
「ぐうっ。たまたまそういう気分だったに違いありません!嫌いとは違います!」
「たまたま、ジェラルドだけが気分に合わなかったのね?」
「ぐうぅっ……母上は私を傷付けて楽しいのですか!」
「シェリルがそんな酷いことを考えるわけがないだろう?」
父親の視線が本気だったので、ジェラルドはすぐに謝罪した。
番同士を親に持つ息子は、成長の過程で身を守る術を学んでいる。
「申し訳ない。興奮して言葉が過ぎました。本当にそう思って言ったわけではありません」
本当はそう疑っていたが、ジェラルドは堂々と嘘を吐いた。
「分かればよろしい。よく聞きなさい、ジェラルド。子どもにはね、何でも嫌だと主張する時期があるものなのだよ。君もその覚えがあろう」
「子どもの頃のことなど覚えておりませんよ?」
「セイディちゃんの幼い頃を知っているではないか」
あっと気付いたジェラルドは記憶を辿った……が思い至る出来事は見付からない。
記憶の中のセイディは、小さくて、幼くて、可愛くて、愛おしくて、愛おしくて、愛おしくて……やはり愛おしくて、ジェラルドは現状も忘れにまにまと顔を緩ませてしまうのだった。
あの頃の思い出があったから、番を失ったあとの十年をすれすれのところで生き永らえることが出来たと、ジェラルドは感じている。
セイディが生きているという感覚に加え、あの愛おしく甘い日々の記憶は、確実にジェラルドに生きる理由を与えてきた。
が、喉元過ぎれば熱さ忘れるというのは事実だったようで。
その十年の苦しみよりも、ジェラルドは今が最高に辛かった。
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