閑話 まおうさまのにがいきおく(雨の日の勇者と魔王②)
公爵であった当時の魔王ことレイモンドは『旦那さま』と呼ばれていた。
現公爵である息子のジェラルドのように使用人たちから『主さま』と呼ばれたことはない。
ちなみに当時のジェラルドの呼び名は『坊ちゃま』である。
まだ十代前半の少年だったこともあり……ジェラルドがいくら嫌がってもそう呼んだ。
レイモンドも似た苦い記憶を持っている。
さてこの二人、順当にいけば、代替わり後の使用人らからの呼称は次のように変わる予定だった。
レイモンドは『大旦那さま』。
ジェラルドが『旦那さま』だ。
これで素直に納得しないのが、アルメスタ公爵家で働く者たちである。
しっくりきませんねぇという声は多く聞かれた。
そんな捻くれ者の彼らを庇うわけではないが、主人の呼称に関しては最初からひとつの大きな課題を抱えていたのだ。
代替わり前から『大旦那さま』と呼ばれる人物がすでに存在していたのである。
彼らはそちらをどう呼ぶかという問題に直面していた。
そこではじまる例の会議。
それぞれを如何様に呼ぶかという話し合いが連日行われることとなる。
当主の息子の幼い番が奪われたあとの話だ。
しかもその番は見付かってもいないし、足取りさえ追えていない状況である。
そんな日々に平和過ぎる議題だと思うだろうか。
しかし彼らは大変真剣にこれを議論した。適材適所で役割分担というところであろう。
国土だけでも広く全員が国中に広がって、あるいは国を越え大陸中に飛んで探し回ったところで、見渡す限りの荒野から一人で蟻一匹を探し出すようなものである。
混乱もあって初期の段階で痕跡を見失ってしまった彼らは、連携し合いながら辛抱強く堅実に動くしかなかったのだ。
『大旦那さまを大大旦那さまとお呼びしてはどうだ?』
『それはあまりに呼びにくいだろう』
『しかし先々代という表現があるのだから、大々旦那さまというのもありだろう?』
『だから呼びにくいんだってば』
『それだと大旦那さまと混同する自体も起きそうだ』
『おおおお旦那さまと、おお旦那さまか。確かに聞き間違いは起こり得るな』
『それに急いでいたら大変に面倒な長さですよね』
『出来るだけ短い方が有難いよな』
仕える相手になんとも不敬な者たちである。
この場に当主らがいないこともあり言いたい放題だ。
『そうは言っても、旦那さまをそのままにというのはいただけませんよ?外の者が聞いて思い違いをされては困りますでしょう?』
『実質旦那さまがお仕事を継続されるということだから、思い違いではないけどな』
『うちではそうだとしても、外に知らせるわけにはいかないという話です』
『ところで坊ちゃまを旦那さまとお呼びすることも違うように感じませんか?』
『あ、分かります。まだ早いというか』
『そうそう。まだ早いよな』
『だいたい公爵様となられても、仕事らしいことはしないのだろう?坊ちゃまは坊ちゃまでいいと思わないか?』
『いやだからさ。外の者に聞かれると厄介なんだってば』
『使用人にも認められていない公爵と思われてはまずいですよねぇ』
『ここでの皆の発言がまさにそれですけどね』
『ここではいいんですよここでは』
穏やかな空気を一変させるように、バンと机を強く叩く者がいた。
『ふざけるのはいい加減にしろ!番さまを奪われたのは我らの落ち度ぞ。もっと誠意をもって仕えなければならぬだろう!』
『概ね同意しますが。坊ちゃまへの態度を変えようというのは反対です。番さまを救出し、坊ちゃまもお戻りになられました暁には、私たちに変わらず仕えることを望まれる御方ですからね』
『それならば坊ちゃまのままでいいのでは?』
『いえ呼び方の話ではなく。爵位を得たから、こちらに落ち度があったからと、そのような理由で私たちに接し方を変えるようなことは望まぬ御方でしょう?皆もよく知っていますね?』
『抜けたところがあってお優しい坊ちゃまですもの。本当に……私たちを責めて少しでも楽になってくださればよろしいですのに。どうして坊ちゃまが責任を感じあのように苦しまなければならないのでしょうか』
『番さま……お元気でいらっしゃるか……』
『生きているのは確かだ。坊ちゃまがそう言うのだからな』
『早くお見付けして差し上げねば』
と、話題が逸れはじめれば。
『番さまに関する新情報はまだ得られないのですか?』
『さすがに逃げ足が早過ぎるよな?』
『痕跡もきれいさっぱり処理済みだぞ』
『ここまで出来る人間というと、この国では限れられてきますねぇ』
『もう時間を掛けられません。証拠なしに乗り込んで番さまを返すようにと暴れましょうよ』
『そうだそうだ。こちらも人質を取って脅せばいい』
『せめて交渉と言ってくださいな』
『落ち着きなさい。それでは戦争になるからと今は皆で耐えているところでしょう?』
『旦那さまはともかく、大旦那さまは戦争まではお認めにならないでしょう』
『我らが勝手に動いたとすればどうだ?この首を差し出して終焉とすればいいのだろう?』
『それは驕りぞ。我ら如きの首でなんとかなると思うな』
『静粛に静粛に。私たちが動いたせいで番さまが危険に晒される状況だけは避けねばなりません。ですから現状動けぬことは分かりますね?勝手な行いは禁じていますよ』
『場所が特定出来るまではやはり厳しいか』
『急がねば坊ちゃまとて危ういのだぞ?』
『番さまとて幼くもどのように感じておられるか。まだ五歳ですよ?……まもなく六歳を迎えられるのですね』
『何もなければ今頃は贈り物と祝いの準備で忙しくしていたのにな』
と、話は当初の話題から流れに流れ……。
話がまとまったのは、それから三日後。
領地の邸を主として住まわれることになるということで、先代公爵は『お館さま』に。
旅に出るとはいえ王都の邸を拠点とする新公爵は、使用人一人の思い付きの言葉から『主さま』と決まった。
そして大旦那さまは今のまま『大旦那さま』。
そのように結論付けられ、今に至るのである。
当然、これに納得出来なかった男がいた。
現在の魔王だ。
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