72.王女様が頼りにするもの
城に戻ってからも王女の苛立ちは止まらなかった。
気分が悪いと言って湯浴みの用意をさせ、身体の手入れもいつもより念入りに行わせたが、それでもなお気分は晴れない。
「こんなときに!役に立たないわね!」
王女は鏡台の上に侍女が置いていった瓶を忌々しく睨みつけた。
その中身は王女がお気に入りの香油である。
隣国から特別に取り寄せたものをベースに、この国の香油とブレンドしたそれは、精神を高揚させる効果があり、自分にしか使えないという優越感も相まってか、王女への精神的な作用が抜群に優れていた。
いつもなら、これでしばらくはそれなりに楽しく過ごせていたというのに。
今日はその効果が見られない。
磨き方が悪い。触れ方が悪い。心地好くない。
香油の配合を間違えているのではないの。
身体の手入れが終わるときまで文句を並べ立て、最後には「腕が落ちたわ精進なさい」と怒鳴り付けて全員を部屋から下がらせた。
王女はどすんと鈍い音を立てて自室のソファーに腰を下ろしたが。
すぐに苛立ちのまま立ち上がると、ソファーに並んだクッションをひとつ持ち上げ、にわかに壁に向けて投げつけた。
美しい花柄の壁紙には傷を残さず、叩きつけられたクッションは床へと滑る。
王女はそれからも次々とクッションを持ち上げては壁に投げつけた。
だがこの王女、花器などを割らなかっただけ、大人になっているのだ。
かつてはそのようにして、あらゆるものを破壊した頃もあったし、当時は部屋から破壊されると危険な物が順次撤去され、それは荒んだ部屋で暮らしていたものである。
だがこの王女、気性が荒いかと言えばそうでもない。
普段はむしろ生きるための覇気が足りず、ぼんやりとして過ごすことが多かった。
それで隣国の香油に助けを求めたのだ。
香りを嗅いでしばらく続くこの高揚感は、王女の頭をすっきりとさせ、よく動けるようにもしてくれた。
だがひとたび気分を害すれば、この通り。
癇癪を止められない側面もまた、王女の幼い頃からの変わらない一面である。
「番、番、番……もう何なのよ!忌々しい!」
今度は床に落ちたクッションを執拗にぐりぐりと踏み付けながら王女は叫んだ。
「気持ち悪い。気持ち悪いったらないわ。表情を無くしていた方がよほど素敵だったのに!本当に気持ち悪い」
へらへらと頬を緩ませて微笑むアルメスタ家の若き公爵。
王女は以前見た彼の顔を思い出し、なお一層顔を歪ませた。
「本当に気持ち悪いわ!何が番よ!親も親ね!叱りもせずに何よあれは!私は王女なのよ?」
王女はとにかくアルメスタ家が嫌いだった。
二代続けて番を知る者というところがまずは気に入らない。
「生まれたばかりの赤ん坊を運命の相手だと言ったのよ?どうして誰もおかしいと言わないのよ!この国は気持ち悪い愚民しかいないっていうわけ?」
王女が言うまでもなく、番でなければそれは大問題に違いなかった。
生後数か月の赤ん坊を前にして『僕の運命の相手だ!』と叫び涙した少年。
相手の意志を確認することもなく(赤子相手に確認しようはないけれど)、家の権力を有効活用してさっさとその赤ん坊と婚約を結んでしまった。
番云々がなく、そんな八歳の少年がいたら、その将来は大変心配されるものである。
赤ん坊がいいとか……もし彼が番を知る者でなかったら、アルメスタ先代公爵夫妻は彼の教育に頭を悩ませたであろう。
王女の言い分は一般的には間違っていない。
だが、彼は番を知る者。
少年のそのおかしな言動を悪く言うものなど彼の周囲には一人もいなかった。
二代続いて番を知る者だったこともあって、彼の両親などは息子が運命の相手を見付けたことを手放しで喜び祝福までしている。
「だから私があの穢れた子どもを助けてあげたというのに!何よ何よ何よ!番はいいものですって?結局あの子もそちら側だったのね。気持ち悪いったらないわ!」
その幼女がアルメスタ公爵家嫡男の番と定められたとき、少しの困惑を示した家もなくはなかった。
その筆頭が娘の生家だ。
そちらは番を知る者をもう何代も排出していなかったので、最初はとても混乱している様子を見せた。
だが彼らは欲深く、娘の番相手が公爵家の嫡男ならばと、やはり諸手を上げて歓迎することになったのだ。
それがまた王女の癪に障った。
「あの家も馬鹿だったわね。ふふふ。本当におかしいわ。あの子の親を奪えたことだけは良かったかしらね」
少しだけ心を落ち着かせた王女は、呼び鈴で侍女を呼び戻すと、部屋の片付けを頼んで、紅茶と菓子を用意するよう言った。
羽毛が散乱し室内は酷い有様であったが、侍女たちは無言のままあっという間に部屋を綺麗にしてみせる。
身体に残る分ではいくらも足りないと、香油の瓶の蓋を開けて、それを鼻の近くに持ってきた王女は微笑む。
これで終わりにはしないわ。
見ていなさい。
まずはお兄さまの説得ね。
王女は浅慮な計画を立てながら、優雅に午後の紅茶を味わうことにした。
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