5 水を飲んでみた

 十メートル近い距離を置いているが、『鑑定』することはできた。


【ツェヒリン川。イムカンプ山地から海まで続く。水量豊富で、飲用可。棲む魚はすべて食用可。】


 なかなかに有益な情報が得られた。初めて見る固有名詞にも興味惹かれるが、とにかく飲み水と食料を得る可能性ができたことが、大きい。

 水に向けて気が逸るが、ここで慌てて怪我をしてもつまらない。できるだけ安全に河原に降りる場所を探す。降りた後は、岩に足を取られないよう、陰から何か出てきて襲われることのないよう、十分気を払いながら、川へと近づいた。

 近づくにつれ、しばらく忘れていた喉の乾きが急速に込み上げてきた。

 川べりに身を屈め、両手で水を掬い上げる。ここも『鑑定』の【飲用可】を信じて、口に入れる。


「美味い!」


 何とも透き通った、ほのかに甘ささえ感じさせる美味。

 何よりも乾いた喉と疲れた身体に染み渡る、この身を生き返らせてくれるようにさえ思わせる甘露だった。

 もう自分を制止できないほどの勢いで、さらに掌を水に入れ、二掬い三掬い、と口に運んでいた。

 そうしてようやく、喉に満足が染み上がる。


 一息ついて、これは迷う余地もない。今後これほどの水を得る機会がまたある保証はないのだから、大量に『収納』しておくことにする。

 思い切り大量に、と念じてみると。


「わあ!」


 仰天、してしまった。

 三メートルほどの川幅、その十メートルほどの長さに渡って、一瞬で何かに切り取られたかのように、川底まで水が消え失せたのだ。

 次の瞬間、下流の方はそのまま流れ去って底の見える範囲が広がり、数秒後に上流からの水が勢いよくそれを覆って、やがてすべての流れは元に戻っていた。


――ちょっとしたスペクタル、だなあ。


 まあつまりは、おおよそ三メートル×十メートル×三十センチ程度の箱型と言ったらいいのか、そんなサイズの水が一度に川から切り取られて、『収納』されたということになるのだろう。

 一瞬見えた川底に自然な形で土や石や草や、ぴちぴち動く小魚やが確認できたことからして、おそらくまちがいなく水だけが『収納』されたのだと思われる。

 試しに『収納』から掌の上にわずかな量の水を『取り出し』してみると、無事出現した。つまり、大量『収納』の水の一部だけを『取り出し』することが可能だということだ。

 結果に満足して、その場で腰を伸ばす。

 これで、当分は飲み水に困ることがないだろう。

 またふと気がついて、手の上に毛布を『取り出し』してみた。

 触って確認するが、何処も濡れた様子はない。

 まあ大丈夫だとは思ったが、念のための確認。『収納』の中では別々の収納物が干渉し合うということはないらしい。今後も安心して、容器に入れない水の類いでも『収納』していってよさそうだ。


「さあて」


 と、辺りを見回す。

 空に、陽はかなり傾いていた。

 感覚的に、あの森の中に出現させられたのが正午過ぎ、それから四~五時間経過した、というところだろうか。

 この世界の一日が何時間に当たるのかも分からないが、地球とそれほど変わらない体感で、あと二~三時間で日が暮れるという予想でそれほど外れはない気がする。

 まちがいのないところで、日が暮れてから森の中を歩くなど、正気の沙汰ではないだろう。森に戻らずこの河原沿いに歩くのも、上流下流両方向しばらく行けそうだが、それでも夜行軍の強行は得策に思えない。

 あと二~三時間でとるべき行動は、この近辺に安全な野宿の場所を確保すること、ではないかと思う。

 少なくとも見晴らしがいい分、何か近づくものに警戒がとれやすいのではないか。

 すぐに案じられるのは川の増水だが、この晴天下、上流にダムでもあって放流が行われるとでもいうのでなければ、心配の必要はない気がする。


――野営に使えそうなのは――例の毛布だけか。


 森の中に比べると見晴らしがいいとはいえ、宿泊中に何が寄ってくるか分からない。前世では中学校の宿泊研修でキャンプの真似事をした程度にしか経験がないので、こういった場合取るべき安全策について何ら知識がない。それでも、河原のど真ん中に寝場所を占めるのは避けるべきという気がする。全方向に警戒をしなければならないのは、まったく気が休まりそうにない。

 少し下流に目を凝らすと、崖の岩肌らしきものが見えている。あの傍辺りなら、少なくとも背後に警戒する必要がないのではないか。

 あと必要なものは――できれば、火と食料だろうか。

 火を点ける道具は何もない。定番としては、木の枝などを擦り合わせるか、石を打ち合わせるか、といったところか。とりあえずまず、枯れ枝を集めるのが先決だろう。

 食料は、さっき摘んだ果実があるので飢えることはなさそうだ。あと少し食べ応えのあるものを求めるなら、川魚だろうか。

 しかし、川魚を生で囓る勇気は起きない。焼くことが必須なら、火を点ける試みが何よりも優先ということになる。

 ということで、森近くへ戻って枯れ枝を拾いながら、崖の方向へ進むことにした。


 枯れ枝は拾い放題、『収納』もし放題なので、すぐに一晩のみならず数日分に足りるのではないかと思われる量を集めることができた。

 まあ『収納』しておいて害にはならないだろうが、火を点けることができなければそのまま無駄になりかねないという思いで、途中で拾うのをやめにする。

 崖のようなところに近づいて、しばらく探索。

 このような場合の定番、洞窟を見つけることはできなかったが、少し岩肌がくぼんで、迫り出した庇めいたものの下に身を寄せられそうな場所を見つけた。もしも突然雨が降り出したなどの場合、少なくとも他の場所よりは凌ぐことができるのではないか。

 場所を決めて、その前の砂地に一抱え程度の枯れ枝を取り出す。

 とにかくまず、なんとか火を熾すことができないか、試してみよう。

 よくマンガなどで見たことのある、板の上に棒を立てて擦り回すという方法は、道具が揃わない。ナイフなど削り揃える刃物もないまま、表面ゴツゴツで曲がりくねった枝を、手で回すことはできそうにない。

 とすると残る方法は、石を打ち合わせて火花を発生させることくらいしか思いつかない。

 移動中に拾ってきた小石を取り出し、試してみる。

 何となくだけど、割れた断面のような不規則な形状の方がいい気がして、そんな石を選んで黒ずんだ枯れ枝の上で打ち合わせてみる。

 石の形や種類を変えて、何度も。

 何度も。

 何度も、何度も。


「――はあ、はあはあ――」


 試みてみたけれど――成果はなかった。

 気のせいかという程度にわずかな火花が数度見られたようでもあるけれど、火は熾きず再現もままならない。

 諦めを覚え出した頃には、周囲に宵闇が降りてきていた。

 見晴らしも十分にとれなくなってきたところで、もう他の行動はやめて周囲に気を配ることに集中すべきだと思う。

 火を手に入れることができなかったので、野生の獣たちの接近を躊躇させる条件は何もない。こちらをよい餌だと認識したら、遠慮なく襲いかかってくるだろう。こちらとしてはできるだけ早期にそれを見つけて、石礫と木の枝で追い払うしか対応法はない。


――こりゃ、眠る暇はないな。


 耳を澄ましていると、遠い森の奥から動物の咆哮のようなものが聞こえて、びくり背筋が震え上がった。

 何となく、オオカミの遠吠えじゃないか、という気がする。少なくともウサギよりは凶暴な動物なのではないか。やはり警戒は緩められない、と思いを新たにする。

 次第に辺りが暗くなる中、途中で採取してきた果実を二個ばかり口にした。あとは岩地の上に毛布を敷いて座り、小石と木の枝を握り締めて緊張を続けた。


 周囲が闇に沈む。

 ふと、空を見上げると。


「わあ……」


 無数の星の瞬きが広がっていた。

 月並みだが、都会ではお目にかかれない見事な星空で、思わず見入ってしまう。こんな境遇でなければ、ゆっくり鑑賞したいところなのにと思う。


――よく分からないけど、おそらく地球とは星座の形なんか違っているんだろうな。


 それにしても。

 月は見えないので、上空に比べて地上はほとんど闇の状態だ。頭上よりは、水平方向に気を払い続けなければならない。

 向かいの森の方から、時おり獣の吠え声が聞こえてくる。近づいてくるような、遠ざかっていくような。川を挟んでいるので大丈夫とは思いながら、どうしてもそちらからいきなり飛び出して接近してくる幻像が頭から離れない。

 やはりここは、睡眠を諦めて警戒に徹するべきなのだろう。


「何でこんなはめに陥ったのか……」


 神様あのヤロへの恨みと情けなさで、とりあえずしばらくは眠気も差してきそうにない。

 考えても仕方ないとは承知しながら、いわゆる『前世』まで思いは返される。

 別に他に未練を残すものもない、気になるのはやはり、両親の悲嘆についてだけだ。

 特に目指していた夢もない、十七年の人生、何となく何につけても無難に事なかれとばかりにすり抜けてきた。そんないい加減な短い人生への、この今の事態は神から下された何らかの罰だろうか。


――もしそうだとしても、地球の神ならともかく、こちらのあの軽薄調の神の意志だと思うと、釈然としない。


 考えるだけ無駄としか思えない、そんなもやもやぐじゃぐじゃとしたものが、ただ頭を過ぎていった。

 本当に、考えても仕方ない……。


 結局――。

 陽が昇るまで、一睡もできなかった。

 夜半過ぎに、下弦の月というのか、半月が見えてきた。これも、地球で見るものとは模様が違っている気がする。

 それでも、あの神様は地球と『基本の自然形態は似通っている』と言っていた。もし月の個数や大きさなどがが違っていたりしたら大いに自然形態に影響するはずだから、それほど変わらないのだろうと推測する。見た目、その推測を否定するものではない。

 そんな現状どうでもいいようなことを思い巡らせているうち、ようやく気が遠くなりそうなほど長く思えていた夜も明けてきたのだ。

 実際にそうだったのかただの気のせいだったのか判断もつかないのだが、夜中じゅう何度も闇の中にひそめた足音が近づき行き過ぎる気がした。背後の岩肌に、何か虫のようなものが這いずる気配を感じる気が続いていた。

 そんなものがすべて嘘のように、朝陽の訪れとともに霧散していった。


――まずは、一安心。


 何とか無事に、一夜を越えることができた。

 どこから何が襲いかかってくるか分からない、という得体の知れない恐怖は変わらないというものの、やはり暗闇の中と朝陽の下では気分的に段違いだ。

 ごそごそと、岩の窪みから這い出す。

 正確には、まだ直接朝陽にお目にかかってはいない。ここが地球の北半球と同様だと仮定すると、おおよそのところ川の下流方向が南のようで、陽の光は岩肌の背後から射してきているのだ。

 川の方向へ数メートル移動して、ようやく崖上の木陰に太陽の存在を確認できた。

 何とはなしに、一夜の無事への感謝の祈りを捧げてしまう。

 それから川岸へ寄り、洗顔と口すすぎを行う。ハンカチも手拭いも持ち合わせがないので、行儀悪いのは承知の上で袖口で濡れた顔を拭う。

 大きめの石に腰を下ろして、昨日からと同じ果実で朝食をとる。


「さて、これからどうするか」


 目標は、おおよそ二つか。

 この森の中で生き抜くことと、人里を探し当てること。

 川に沿って移動する限り、森の中よりは不安が少ない。

 懸念は、今食事の当てにしている果実の在庫が尽きた後の補充くらいか。今日中くらいは尽きることもないだろうから、追い追い食用のものを探していくことにしたい。

 人の住む町や村があるとしたら、ほぼまちがいなく上流の山の上よりは下流の方向の可能性が高いだろう。

 と考えると、選択に迷いはない。

 ここで生き抜くためのすべを探しながら、川に沿って下流方向を目指すこと。

 出発の準備として、体調や持ち物を見直す。

 体力は、思ったよりもある気がする。

 正確には分からないが、昨日の移動距離は十キロから二十キロといったところだろうか。

 歩き慣れのした人からは馬鹿にされるかもしれないが、都会生まれの高校生としてはそれほど経験のない、疲労が蓄積しても不思議のない歩行量だ。しかも歩きにくい森の中、何に襲われるか分からない緊張しっ放しの状態で、ときている。

 しかしその割に、一晩明けて疲労は感じられない。かの兄ちゃん神様の言っていた『体力的にはこちらの平均的な十七歳と遜色ない程度に補正を加える』というのを、信じておいていいかもしれないと思う。『長距離走で県大会に出場できるレベル』というのもあったから、まあスタミナも人一倍あると思っていいのだろう。

 また、昨日ノウサギの頭突きを受けた左腕は、少しずきずきは残っているものの動かすにあたって不自由はない。やはり骨に異状はないようだ。

 一方で、持ち物。これはほぼすべて『収納』の内容物だ。

 昨日確認した通り、毛布と紐、銀貨はそのまま。追加したのは大量の小石、枯れ枝、これも大量の川水、ソルドンの実が七個、高さ一メートルほどの大きな岩が一個。

 とりあえずこれで、飢えと渇きの心配はない。

 怪しげなのは、不意の襲撃に備える武器の面だろうか。

 少し離れた相手には石礫、接近戦には木刀替わりの枯れ枝、それだけだ。

 まあ、贅沢は言っていられない。この現状で、移動を始めることにする。


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