12 老婆と話してみた

 痛い。

 頭も、全身も、とりわけ右の足首付近が。

 痛い――そんな痛みに苛まれながら、目を覚ました、らしい。

 正面に――木の梁?

 いや正面というより、真上と言うべきか。今自分は、仰向けに横たわっているようだ。

 背中には、ごつごつとしながらもわずかに弾力のある布。腹から脚の上に、無骨な麻布。

 どうも一応、人間の住まいで寝床に寝かされているようだ。

 あの滝を落ちた後も大怪我は免れて、意識のないまま誰かに救助されたということだろうか。

 横たわった部屋は、かなり狭い。日本家屋の感覚で三畳間といったところだろう。室内には他に誰もいない。

 右手に出入口らしい扉。左手に開け放された窓があり、外は明るい。今は日中のようだ。

 窓のすぐ内側に紐が渡され、衣服が干されている。猿股のような下着まで。明らかに見覚えのある、自分のものだ。

 改めて我が身を探ると、全裸になっている。当然、川から引っ張り上げられ、濡れた着衣を脱がされたのだろう。

 全裸は落ち着かないので、何とか身を起こし、干し物に手を伸ばす。

 全身が筋肉痛の模様、あちこちに擦り傷、切り傷。オオカミの爪に切られたはずの左肩に、薬草らしい大きめの葉が貼られている。いちばん痛みが酷いのは右足首で、捻挫か何からしい。

 そんな痛みに耐えながら辛うじて、下着を掴む。

 まだ湿っていたが、水分を『収納』することで乾燥できた。

 これも痛みを堪えながら穿いていると、扉にがたがたと物音が聞こえた。

 すぐに木のドアが開かれ、入ってきたのは小柄な老婆だった。

 真っ白な長い頭髪を後ろで結わえ、西欧風の顔立ちに深い皺が刻まれている。服装は粗末で、茶色のスカートに継ぎが当たっている。


「おやおやあんた、目を覚ましたかい」


 幸い神の恩恵にまちがいはなく、聞いた記憶もない言葉だが理解できた。

 不本意ながらもパンツ一丁の格好で、床に足を伸ばしたまま頭を下げる。


「あ、その、済みません。僕、助けていただいたんでしょうか」

「そうだよお。今朝、わしがそこの川で洗濯してたら、あんた、岩に引っかかっているのを見つけたさあ。慌てて息子を呼んで引っ張り上げたのさあ」

「それはどうも、ありがとうございました。命を助けていただいて、お礼の言葉もありません」


 土下座の格好で感謝の意を表したいところだけれど、こちらの礼儀作法がどうなっているのか分からない。さらに現実問題として、右足首がまともに動かせない状態なので、伸ばしたままで深く頭を下げるしかなかった。

なんも何も」と手を振り、老婆はからからと笑った。

 手にしていた木の器を床に置き、よっこらしょ、とすぐ傍の敷物らしいものに腰を下ろして胡座めいた姿勢になる。


「災難に遭ったときは、助け合うものさあ。こんな若い子、無駄に命を落とさせるわけにいかないもの」

「本当に、助かりました」

「それにしてもあんた、何処から来なさったかね。あんな、何で川に填まったのさあ」

「あ、それが……」


 いきなり心の準備もなく、初めてこちらの人間と会話することになったわけだが、ある程度以前から決めていたことはあった。

 かの兄ちゃん神様の言葉を信じる限り、この世界ではこれまでに異世界からの転生者等を迎えたことはないし、明らかな魔法等を使う人間はいないことになっている。

 その点を考えると、こちらの前世を打ち明けたり、『収納』等の能力を公開したりするのは避けるべきだと思われる。

 信じる信じない以前に、狂人か化け物扱いされて収監なり処刑なりされてしまう顛末が、まざまざと予想されてしまう。

 ここは、それを誤魔化すテンプレに従う以外ないだろう。

 つまりそう、『記憶喪失』というやつだ。

 自然や人間に関することわりに大きく違いがないとするなら、これはこちらでもまんざらあり得ないものではないのではないか。


「それが、その……よく覚えてない、思い出せないみたいでして……」

「おや、そうなのかい。生まれとか、名前とかもかね」

「ええ。さっきから考えているんですが、まったく思い出せなくて」

「おやおや、名前も思い出せないなんて、そんなことあるのかねえ」

「申し訳ありません」

「まあそういうことじゃ、仕方ないのかねえ」


 人のよさそうなお婆さんは、こんな怪しげな発言をあっさり信じてくれるようだ。

 うんうん頷く仕草で、持ってきていた木の器を差し出す。


「事故に遭ったばかりで、混乱しているのかもしれないねえ。少し落ち着いたら、思い出すこともあるかもしれないよお。それまで大人しく休んでいればいいさあ。まあほら、水でもお飲み」

「どうも済みません」


 受け取って口に運ぶと、ぬるい無味の真水だ。咄嗟に【無害】だけは確認して、飲み下す。

 もちろん『収納』してある川水の方が冷たくて美味なわけだが、こちらは老婆の親切が胸に染み通るようで、申し訳ないほど有難みを覚える喉越しだった。

 器を返しながら、もう一度頭を下げる。


「あの、済みません、教えてもらえますか。ここは、何処なんでしょう」

「ああ、そうだねえ、何も分からないんだものね」大きく頷きながら、ぱんぱん膝を叩く。「分かるかね、ここ、グルック村というさあ」

「えと……やっぱり覚えはないみたいです」

「そりゃまあ、頭がはっきりしていても知らないかもしれないさねえ、小さな村だもの。住んでるの、十二人しかいないんだから」

「そうなんですか」


 それからいくつか、簡単に教えてもらった。

 この国の名前は、ゲルツァー王国。

 村の名前はグルック村。

 ここら一帯は、シュナーベル男爵領となっている。

 ここから西へ歩いて半日と少しで、領都のプラッツという町へ行ける。

 お婆さんの名前は、エディト。


「エディ婆と呼んでくれればいいさあ。みんなそう呼ぶんだから」


 最初「エディトさん」と呼ぶと、そう訂正された。

 あまりに馴れ馴れしい気がするので「エディ婆さん」と言うと、それでも他人行儀過ぎると拒否され、何とか「エディ婆ちゃん」で妥協してもらうことになった。

 年齢を訊くのも失礼かと躊躇したが、あっさり「七十六になるよ」と教えてくれた。

 ヨルクという息子が同居していて、ここの家長ということになる。

 ヨルクの妻は死別。七歳になるユリアという娘がいるという。

 息子が三十代前半ということでエディ婆ちゃんの子どもとしては若い気がするが、上に何人かいた子どもと夫が次々と獣に襲われたり疫病にかかったりで死亡してしまったようだ。


「この村も昔は何十人も住んでたもんだけどさあ、そんなこんなで死んでって、今は十二人しか残っていないのさ」


 そういうことで、この家は三人家族。今、ヨルクとユリアは畑仕事に出ている、という。

 それにしてもお婆ちゃん、気安く情報を公開しすぎだ。今この家に男手がいないと知って、いきなりこちらが強盗に変身したらどうするんだ、と思ってしまう。

 まあその程度に、犯罪等を警戒する必要がないほど平和な村だということなのだろう。

 村の四軒の家はそれぞれに畑を所有していて、協力しながら耕作をしているらしい。

 今は秋蒔きの小麦の収穫も済んで、夏野菜の栽培をしている。

 畑の世話の合間に、息子は森に入ってノウサギなどの猟をすることもあるという。


 目が覚めたのがもう午後になってからだったらしく、そんな話をしているうちに陽が傾いてきていた。

 朝に川から救助されたということなら、半日程度ここで眠っていたということになるのか。

 それ以前に一晩以上川に流され水に浸かっていたということになるようで、あまり思い返したい気にもならない。

 夕食の支度をしなきゃ、と婆ちゃんが部屋を出ていって、しばらくしてからがたがたと戸の開け閉めらしい音が響いてきた。

 聞こえてきた幼い声は、孫娘だろう。


「ばあちゃんばあちゃん、ただいまあ」

「おやお帰り」

「ねえねえねえ、あのドザエモンさん、どうしたのお?」

「うんうん、さっき目が覚めて、元気になったみたいだよお」

「それはよかった」


 祖母と孫の会話に、太い声が混じる。息子も一緒に帰宅したらしい。

 それにしても、発音は同じではないが日本語の「土左衛門」に該当する言い回しがこちらにもあったようだ。放っといてこれで呼ばれるようにでもなったら堪らないな、と秘かに考える。

 息子に向けて、「いやそれがねえ」と、婆ちゃんはこちらの状況を説明してくれていた。

 身体は、足を挫いた以外酷い状況ではないらしい。しかしどうも、これまでのことを覚えていないということらしい。


「えええーー、名前も思い出せないって、そんなことってあるのお?」

「まあ、話に聞いたことぐらいはあるな」

「それを除けば、話し方も丁寧だし、大人しい男の子みたいだよお」

「そうなのか」


 いろいろ話を聞いた後、「様子を見てみるか」と息子はこちらの部屋に近づいてきた。

 下はパンツ一丁、上は辛うじてシャツ一枚を羽織った、という情けない格好だが、上体を起こして迎える姿勢をとる。

 すぐに、扉が開かれた。


「ああ、起きてたな。家長のヨルクという」

「お世話になっています。命を助けていただいて、本当にありがとうございます」


 やはり足を伸ばしたまま、頭は深く下げた。

「うむ」と頷いて、ヨルクは床に胡座をかいた。

 茶色の髪と頬と顎いっぱいの髭。かなりの大男で、農民というより猟師の方が相応しく見える外見だ。

 その背中に抱きつく格好で、小さな女の子が恐る恐るの顔を覗かせている。

 父親より薄い色の髪を短くした、愛くるしい顔立ちの娘だ。


「前のことを思い出せないということだな」

「あ、はい。いろいろ思い出そうとしているんですが」

「無理はしない方がいい」


 農民や猟師としてこれがふつうなのか、にこりともしないで朴訥な話し方をする。

 それでもこちらを拒絶する様子ではないので、何よりありがたかった。


「何となく思い出したんですが、山の中を歩いていて、獣に襲われて川に落ちた、という気がするんです」

「ふむ。確かにその肩の怪我、何かの爪でやられたみたいだな」

「はい、そうみたいです」

「だとすると、イムカンプ山の中で川に落ちて、ここまで流されて来たんか」

「イムカンプ山っていうんですか。はい、そうなんだと思います。その他は思い出せないんですが」

「ふうん。怪我はその肩のと、足を挫いてるのの他はそんなでもないように見えるが、おかしなところはないんか」

「はい。足さえ少しよくなれば、動き回れると思います」

「なら、よかった」


 やはりにこりともせず、一つ頷いている。

 そしてわずかに喉の辺りに唸り声を落として、大男はぎろりと目を向け直した。


「気の毒な事故に遭ったようだから、その足が治るまではここで面倒を見る。しかし悪いが、歩けるようになったら出ていってもらう」

「はい、ありがとうございます。面倒をおかけしますが、お世話になります。今は何もできませんが、後日きっとお礼をしますので」

「ガキのくせに、無理はしなくていい」


 ぶっすらと、言い返された。

 この世界で十七歳は『ガキ』に当たるのか、こちらが年齢より幼く見えているのか、追い追い確かめる必要がある気もする。「体力的にはこちらの平均的な十七歳と合わせる」というようなことを言われたと思うが、見た目はその限りでないのかもしれない。

 まあ今は『ガキ』と思われている方が収まりがよさそうに思えるので、あえて深入りはしないことにしておく。


「お兄ちゃん、お名前ないの?」

「うむ。どうもそうらしいな」


 父と娘が小声でやりとりしている。

 ずっと名なしのままというのも落ち着かないので、ここでも考えていた設定を持ち出すことにした。


「あの……ちょっと、お訊きしたいんですけど」

「うん、何だ?」

「『ハック』という言葉、何かを指すものか分かるでしょうか。特別なものとか、地名とか」

「ハック……? いや、知らんな」

「何となくぼんやり思い出す中に、そんな呼びかけが聞こえる気がするんです。もしかするとこれが、僕の名前なのかもしれません」

「ほう」

「もしかすると違うのかもしれませんが、とりあえずそうだということにしておいてもらえませんか。名前がないままというのも情けないので」

「分かった。ハックだな」

「ハック――お兄ちゃん?」

「うん。ああ、ユリアちゃんだったね。そういうことで、よろしく」


 声をかけると、娘は父親の背の陰に隠れてしまった。

 人見知りの性格なのか、慣れるまで時間がかかるのかもしれない。

 ちなみに『ハック』というのは、本名の珀斐はくびから派生した、小学校時代数少ない友だちから受けていた呼び名だ。日本でも西洋でもそれほど違和感がなさそうで、都合がいい気がする。

 なお、ヨルクに向けて『鑑定』を試してみると、


【人間。男。三十一歳】


 と出るだけだった。名前とか身分とか能力とかが見えるわけではないらしい。いちいち人間を『鑑定』しても、あまり意味はなさそうだ。


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