54 見つけてみた
奥の厨房から「わあ」という喜声が聞こえてきた。
パンも煮込み料理も昨日からデルツの手伝いで作成に参加していたナジャが、感激の顔でニールの手を取っている。
それに比べると表情は少ないが、十日あまりずっとイーストとミソの開発に注力してきたニールも、いつになく軽い踊るような動きになっている。
そちらに劣らず前のめりの勢いで、ジョルジョは店主に話しかけていた。
「パンも、今日から売り出すのがいいのではないか。うちの店から手伝いを寄越そう。とんでもなく柔らかいパンの発売と、町中に呼ばわりながら売り出そうじゃないか。今からならどれぐらいの数を用意できそうだ?」
「は、ええ。すぐ焼き始められそうな生地が、十個分ちょっとですか。昼には用意できやす。あと続けて作っていって、夕方までに四~五十個といったところで」
「ふむ。夕方には夜の営業に備えて、煮込みを作り始めることになるのだな」
「そう、なりやす」
「そうすると、その五十個程度のパンの販売だな。うちの店から二人ほど人を寄越す。作る方の手伝いにはあまりならんが、売り手をさせよう。近所に声をかけて宣伝をする。これから毎日ここで柔らかいパンを売る、柔らかいパンの素も近日中にイザーク商会から売り出す予定、と広めたい」
「へ、へい」
「数個のパンを小さく切って、来た人に無料で試食させるのがいいのではないでしょうか」
提案すると、会長と店主は一瞬目を丸くした。
「無料で試食」などという宣伝法は、頭になかったらしい。
少し考えて、ジョルジョは大きく頷いている。
「なるほど、このパンについては、実際口にしてもらうのがいちばんの宣伝になるね。デルツ、それでやってみてはどうだ」
「へ、へい」
「いっそ、昼に用意した分はすべて試食用にするか。試食で評判を広めて、実際の販売は夕方からと伝える。夕方の販売時には煮込みの試食も出したらどうだろう。面白い試みになるからね、試食の分はすべて私が買い上げる形にしよう」
「え、え、それでいいんすか」
「すべては、イーストとミソを商会で売り出すための布石だからね」
「は、はあ」
あとは二人の話し合いに任せて、こちらは一度戻ることにする。
当面必要な、イーストとミソの追加分を運んでくる必要もある。
そう伝えると、考えながらデルツが問いかけてきた。
「できればこのまま、ナジャに手伝いをお願いできないかな。商会の荷物運びの分にイロをつけた程度に、日当を出せる。明日以降は様子を見なければ分からんが、とにかく今日はパンと煮込みをできるだけ用意したい」
「ああ、なるほど」
厨房の方を見やると、ナジャは大きく何度も頷いてみせている。
日当が出るということなら喜んで働きたい、という意思だろう。
「ナジャにはそこの小さい子たちを見る役目もあるので、この子たちをここで遊ばせてもいいなら、お預けしますよ。ただこちらの夕食の支度などもあるし、ここの夜の営業には近づけさせたくないので、とりあえず夕方の販売前の支度までということにしてもらえますか」
「ああ、分かった。それで頼みたい」
張り切って、店主はナジャを助手にとりあえずの生地を焼く作業を始める。
ジョルジョは午までに店員の手伝いを派遣すると言って、商会に戻っていった。
こちらは、ニールとともにイーストとミソの運搬で一往復することになった。
それを済ますとあとは任せて、二人で日課のノウサギ狩りに出かけることにする。
並んで歩きながら、未だに口数の少ない連れは珍しく自分から感想を告げてきた。
「こんな、うまくいく、思わなかった」
「そうだな。かなりのところ、ニールの手柄だ」
この短期間で成果を挙げたのは、細かに記録をとりながらの試行錯誤があってこそなのだ。
実際、これほどすぐにうまく結果を出すとは、まったく予想もしていなかった。
何しろ、イーストと味噌、なのだ。
――
イースト。
いわゆる『天然酵母』ではない。前にも一度検討したが、そんなもの、元一般男子高校生の身で、製造法など知る由もない。
そこそこ多くの
確か、何か果実を刻んで水に漬けて、何日か放置するのだったか。
製造自体は簡単そうだが、要領が分からない。どういう環境に放置するのか。温度はどの程度が適当か。確かたびたび振る必要があるというはずだが、どの程度の頻度がいいのか。
そして何より致命的なことに。どんな状態になったら『天然酵母』の完成と判断するのか、まったく知らない。
製造要領についてはいろいろ試行錯誤してもいいだろうが、これは本当に致命的だろう。完成イメージが掴めないというのは。
そこまで考えて諦め、放り出していた発想だったのだが。
ふと、妙なことに気づいた。
――イースト――って、何だった?
パンを膨らませるための酵母、菌だかカビだか、そんなものだった気がする。イーストという呼び方自体、そんな菌みたいなものの大雑把な総称、と何処かで読んだような。
呼称とか、酵母やら菌やらカビやらといった区別など、とりあえずどうでもいい。
大事なのは。
そんな酵母とかいったもの、種類はさまざま膨大にあるのだろうが。
とにかくもその一種類でも見つけて使えるようにすれば、用途に適うはずだ。
これがもし「ベーキングパウダー(膨らし粉)を手に入れろ」とかいうことだったら、お手上げするしかない。かの製品は確か、いくつもの化学物質の混合物だったと思う。それらの物質すべての名称を知って集めなければならないことになる。
しかし、名称が分かっている一種類の物質、あるいは生物、つまるところ菌だかカビだか、ならば光明はある。
だいたい、菌やカビの胞子などなら、この辺の空気中に浮遊していても何ら不思議はない。
試しにそういう指示で周囲の空気中に『鑑定』をかけてみると、
――あった――
のだ。
ごくごく微量ではあるが、【いわゆるイースト、パン酵母】というものが。
このままでは周囲二メートル以内の大気中からの『収納』をくり返しても、十分量を得るのに気が遠くなりそうな程度だが、とにかくも希望が持てたことになる。
存在が確認できたのなら、次の方針は決まっている。
もっと多く存在するだろう場所を探すことだ。
その手がかりも決まってくる。
仮にも生物の一種なのだ、生存しやすい場所、言い換えれば食料のある場所、ということになるだろう。
パン酵母の食料と言えば、まず当てはまるのは小麦粉だ。
小麦粉が大量にある場所はないか。
あった。
某商会での荷物運びをした際覗いた、蔵の中に。
中の空気中を『鑑定』してみると、他とは比べようもない量の存在が確かめられた。
空中だけでなく、小麦粉を入れた袋の表面にもかなりの量が付着している。
袋についた分は『根を下ろした植物』相当で『収納』の可能か否かが危ぶまれるし、もしできたとしても何となくの気分で小麦粉そのものを拝借するのに近くて窃盗に当たる感覚を覚えるので、やめておく。
代わりに、と言っては何だが。
作業が始まって要員たちが小麦粉袋を担ぎ出し始めると、周辺に粉っぽいものが立ち昇り、【いわゆるイースト】の空気中濃度も桁違いに上がった。
その期を逃さず、『収納』させてもらう。
さすがに空気中のものについて、窃盗呼ばわりはされないだろう。それが罪なら、作業員は蔵の中で呼吸もできないことになる。
とにかくもそれで、念願のものを手に入れることができた。
――結果を見るとうまくいきすぎ、フィクションなら御都合主義と揶揄されかねない気もするけど。
結果がよければ、それでいいのだ。
途中の推量などがすべて合っていたのかも、分からない。
とにかくも実際、【いわゆるイースト】の相当量を得ることができた、それが現実だ。
目に見えないスキルやレベルが分かるのは許せるが、目に見えるかどうか際どい菌やカビを『鑑定』で見つけることができるなど納得いかない。
引っこ抜いた草や採取した種なら分かるが、空中に漂う菌やカビを『収納』できるなど言語道断、御都合主義の極致だ。
……などという異論のある方は、苦情電話受付センターまでどうぞ。
こちらはこちらで必死なので、相手にしていられません。
――いやいやいや。何か思考がメタっぽく混乱してきた。
ここしばらくの懸案の見通しが立って、気が緩んできたか、とも思う。
もしかすると、前世ではあり得ない幸運が何処かに働いたということはあるかもしれない。見つけたイーストも、あちらのものとまったく同一の性質を持つとは限らない。
何にせよ現実、こういう経緯でイーストを手に入れることができた。
これを何とか落ち着く形にまとめて、「ドライイースト」とか「生イースト」とか呼ばれるものにできるのだろう。
しかしそんな加工の方法、見当もつかない。集めたイーストから水分を抜くなどすればいいのかもしれないが、それが実用に耐えるかを確かめるには、いちいちパンを焼くまでの工程を経てみなければならない。
そんな手間をかけることを考えるより、まずはこの現段階のイーストが今までより柔らかいパンを作るのに役立つかをさまざまに確かめることの方が先決だ。
ということで、とにかくパン生地作りにすぐ結びつくだろう加工法をとることにした。具体的には、水で練った小麦粉にイーストを入れて、発酵の膨らみを確かめた元種(というのか?)を作るという方向で。
ある程度の発酵状態を見た元種を改めて水とともに小麦粉と混ぜ、塩味をつけてこね、パン生地作りをする。それをまたある程度の時間寝かせ、膨らみを見て、小屋にある鍋で蒸し焼きにしてできを確かめる。この辺の配分量や時間の試行錯誤を、ニールに記録させながらさまざま行わせた。
とにかくもまあ、膨らみが十分ではなくても従来の固いパンより少しはマシかというものができ上がるのだ。それらの試作品も孤児たちにとって十分な食料として腹に収まることになった。
そうしてある程度実用の手応えを得て、昨日デルツの店のパン竈を借りて本格的に焼き上げることを試みた。デルツの驚嘆の反応を確かめて、商会長に計る決断をした、ということになる。
でき上がっているものは、前世のものと比べると、性質は生イースト、見た目は天然酵母に近い、ということになるか。
さらに使いやすさや保存性などについて考慮の余地はあるかもしれないが、とりあえずの売り物になると思われる。
一方、ミソの開発についても経緯は似ている。
本当に作れるかどうかの見通しは、イースト以上に暗かったわけだが。
何しろこれも、
日本の食が恋しいと思う主人公が、味噌醤油が何処かにないかと喚き、のたうち回る。
作ることはできないか、ちらりとくらい考えたとしても、材料が揃わない、と立ちどころに諦める。
ほとんどそんな成り行きで、主人公や周辺の人物が材料を揃えて製産に乗り出したという例は見たことがない。
見た目西洋的な世界だがもともとそこに米や味噌醤油はふんだんに存在していたという設定は、相当数あった。それ以外ではせいぜいが、別の地域で作られているのを見つけたとか、見つけた木の実から偶然醤油が採れたとか、失敗作のポーションが偶然味噌醤油に化けたとか、そんな話くらいだ。
どうも他の食関係のものや工業製品などに比べても、自力製産が不可能と判断される代表扱いらしいのだ。
そういう
しかしここまでペニシリンやイーストについて手応えを見つけていた経緯で、これももしかすると何とかなるのではないかという気がしてきた。
しつこいようだが、何か有利な条件を持っていたかどうか、分からない。
ただ、もしかすると元一般男子高校生として特殊なのかもしれないが、
さらに、
もっと言えば、味噌の材料は大豆に限らず、米や麦、他の豆類でも何とかなるのではないかという、記憶なのか勘なのかが頭の隅にあった。
さらにさらに、ここまでいくとそれこそ御都合主義の謗りを受けるかもしれないが、事実だから仕方ない。少し前に、
こんな、たまたまの有利な条件が重なっていたということなのだろう。
少なくとも、味噌に近い程度のものなら何とかなるのではないか、という思いが強くなってきた。
イーストと同様に、麹を手に入れることはできるのではないか。
こちらのキマメというのが大豆に近そうだが、もし似て非なるものだったとしても、キマメや他の豆や小麦やのどれかで、日本食禁断症状を気持ち程度にでも慰められるかもしれないくらいの、味噌モドキなら作れるのではないか。
さらに味などについて譲歩するなら、数ヶ月気長に時間をかけなくても、一週間くらいでそれらしき程度のものを試作、というのもできるのではないか。
というわけだ。
――いや、自分は別に日本食禁断症状があるわけじゃないけどさ。ものの喩えってやつだ。
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