53 見せてみた

 そうした新生活を始めて、十日あまりが過ぎた。

 ニールと二人、新製品開発の傍ら、雨の日以外毎日ノウサギ狩りに通う。

 他の子どもたちは以前と同様、仕事に通っている。

 ただねぐらに戻ってくると、大工仕事、裁縫、こちらの開発作業の手伝い、などをするようになったのが変わった点だ。

 さらに、読み書き教室もそのまま続いている。

 収入が増えた分、食生活も安定してきている。ノウサギ肉は在庫を見ながら適宜補充しているし、野菜類の購入を増やすことができるようになった。

 またニールを中心に中間年齢層の子どもたちで小屋の裏の土地を耕し、青物野菜の栽培を始めた。ナジャとレナーテが農村出身で、少しは知識があるということだ。

 そこに、さらに食生活充実の要因が加わっている。


 八の月の二十三の日、ということになるようだ。

 前日に料理屋のデルツに協力してもらっていろいろ試行した上、でき上がりの満足を確かめて商会のアムシェルに声をかけた。

 結果この日の午前、会長ジョルジョにデルツの料理屋へ来てもらうことになった。

 アムシェルは荷運びの監督をしている時間帯で、足を運んできたのは会長一人だ。

 先日の話で肉屋のヤニスはジョルジョ会長の幼馴染ということだったが、聞いたところデルツも少し年下の古馴染みということになるらしい。


「先日言っていた新製品の試作品、ということでいいのかな」

「はい。ここのデルツさんに最終段階の調理をしてもらって、一応完成と言っていい形になりました」

「ほう。ということは、その製品は食材ということになるのかな。見せてもらおう」

「はい」


 厨房に呼びかけると、ナジャが皿を掲げて出てきた。孤児仲間の中では比較的調理が得意なので、ニールとともに加工を任せていたものだ。

 この日、他の面子はいつもの仕事に出ていて、ナジャが世話の当番になっている小さな子たちは店の隅で遊んでいる。

 テーブルに着いたジョルジョの前に、皿が置かれる。

 載っているのは、薄茶色の焼き色がついた、直径三十センチほどの円いものだ。


「これは」香りを確かめて、会長は軽く首を傾げた。「パン、ということでいいのかね」

「はい」

「特別変哲はない――まあ平べったくはなく膨らんで高さがある、という見た目か。何か特別な点があるのだろうか」

「食べていただければ、分かると思います」

「ふむ」


 頷き、手が伸ばされる。

 円い焼き物を持ち上げて、その目が大きく開かれた。


「何――?」


 しばらくその指に摘まんだものを見つめ、やがてもう一方の手が添えられ。

 難なく二つに千切り分けられたそれに、ますます目が瞠られる。


「何だ、この柔らかさは!」


 数呼吸の間呆然と手元を見つめていたが、一転慌ただしい手つきでその一片を千切り、口に運ぶ。

 そうして、中年男の目がますます大きく丸まり、硬直した。


「柔らかい――信じられん!」

「ですよね、旦那!」


 我慢しきれなくなった勢いで、横からデルツが声をかけた。

 かくかくとぎこちなく首を回転させた会長と、興奮抑えきれず頷きを交わす。


「俺も自分の窯で焼いてみて、未だに信じられないんでさ、このとんでもなく柔らかい焼き上がり」

「そう――なのかい」


 瞬きを忘れたような表情のまま、ジョルジョの顔がこちらに向き戻った。


「何をどうやったんだね。何の工夫だ、作り方? 材料?」

「特別な材料を、小麦粉に混ぜます」

「特別な材料?」

「お貴族様の食べるパンもこれほど柔らかくはないということですから、今までなかったものだと思うんですけどね。ただ大昔から人はパンを焼いていて、偶然のようにときどき膨らみのいい柔らかさのあるパンができたということは、あったそうです。生地のこね方、寝かし方、焼き方、その他に気象条件や地域性なども関係していろいろ偶然が作用するみたいですけど。しかしとにかくそんな膨らみに作用する物質が、自然界に存在する。そんな物質を工夫して集めたものだと考えてもらえればいいと思います」

「なんと……つまりそれを使えば、誰でもこんな柔らかいパンが焼けるというのかね」

「ある程度の技術と慣れは必要でしょうけど、たぶん誰にでも、と言っていいと思います」

「なんと……」


 大きく嘆息して、会長はもうひと欠片を口に入れた。

 ゆっくり咀嚼し、ごくりと飲み込む。


「旨い――ちゃんと小麦の味がする」

「何も入れない場合よりは多少独特の香りがつくようですが、それよりも柔らかくなったことで小麦の風味が引き立つことの方がまさるみたいです」

「その、特別な材料? 何というのかね」

「とりあえず、イースト、と呼ぶことにします」

「イースト……」


 ナジャに声をかけて、木のボウルに入れたものを運ばせた。

 見た目は小麦粉を固く練ったようなもので、ところどころ泡が膨らんでいる。


「そちらの商会に取り引きを検討していただきたいのは、このイーストなんです」

「それを買えば、何処の家でもこんな柔らかいパンが焼けるようになる、か。まずは領主様や貴族相手に売ることができそうだな」

「だと思いますね。ただ気をつけたいのは、このイースト、日保ちがしません。パンを膨らませるような作用を発酵といいますが、放っておくとこのイースト自体がどんどん発酵して、数日で酸っぱくなってしまいます」

「そうなのか。まあありそうなことだな。逆に考えると、買う方でもまとめ買いするというわけにいかず、継続的に商売になるというわけだ」

「そうなりますね」

「ふうむ」


 難しい顔で、ジョルジョは黙り込む。胸中でいろいろ算盤を弾いているのだろう。

 この取り引きが成立したとして、価格設定や売り出し方法は商会に任せる他ない。

 毎日口にする主食の問題なのだから、庶民の生活を豊かにする目的ならば、価格は低い方がいい。しかし今は自分たちの収入を優先する上で、高くなるのは望ましい。

 別にこれがなければ民衆が飢えるというものではないのだから、せいぜい稼がせてもらってバチは当たらないと思う。

 そんな事情も含めて、かなりのところこの会長の胸三寸に委ねるつもりだ。


「とにかくもこれは、取り引きさせてもらいたい。このイーストというもの、商会に卸してもらえるか」

「はい」

「条件などは、もう少し相談して詰めることにしよう」

「はい、お願いします」


 答えて、傍らの店主の顔を見る。


「あと、とりあえず今回の約束で、ここのデルツさんに優先してイーストを卸して、焼いたパンを販売してもらうことにしています」

「ふむ――今のところ商会ではパンそのものは販売していないので競合しないから、構わないだろう。というより、先に実際のパンが出回らないとイーストの売りようがないことになる。デルツにはうちと契約して協力の上、製造と販売を進めてもらえないかな。これを使ったパンの焼き方は、デルツがいちばん心得ているわけだね?」

「はい、昨日から数回焼いてもらっているので。現段階では、デルツさんとうちのナジャがいちばん詳しいはずです」

「おそらく、このイーストの使い方をあちこちに指導、普及していかなければならない。デルツに協力を頼めるかな」

「はい、いい、すよ」


 料理屋主人も大きく頷いている。

 会長は腕を組んで、まだ思案を続けているようだ。

 ややしばらく時間を置いた上で、そこに話しかけた。


「済みません、実はもう一つお見せしたいものがあるんです」

「もう一つ? 何だろう」


 これはデルツに頼んで運んでもらった。

 深めのスープ皿に入った料理だ。


「これは?」

「ご存知かもしれませんが、このデルツさんのお店の名物は内臓肉の煮込みなんです。その料理法を工夫してもらいました」

「ほう」


 汁の中にノウサギの内臓と根菜類が沈んでいる、という点は従来と変わらない。

 見た目が変わっているのは、汁の色合いだ。

 今までは塩とニンニク程度の味付けで、ほとんど無色の汁だった。

 それが今は、やや黄色がかった白濁の外観になっている。

「変わった色のスープだね」とややめつすがめつしてから、恐る恐るという手つきで会長はスプーンを口に運んだ。

 すぐに「ふむ」と視線が持ち上がる。


「今までにない味だね。もちろん塩味だが、そこそこの甘みと何というか風味が加わっている」

「はい」


 続いて内臓肉をすくって口に入れ。

 根菜をそれに続けて。

 さらに何度か頷きを見せる。


「これが狙いなんだろうが、ふむ、内臓の癖のある匂いが薄まっているか」

「ええ、それだけではないですが、そこがいちばんの狙いですね。内臓の処理も少し工夫しましたが、新しい調味料で食べやすくならないものかと」

「ということは、ここで売り込みたいのは調味料ということか。この黄色っぽく濁ったものかね」

「はい」

「名前は何と?」

「ミソと呼ぶことにします」

「ふうむ。見せてもらえるか」

「はい、正直、見た目はあまりよくないのですが」


 これも、ナジャに運んできてもらう。

 木の枡に入れた、黄色がかったペースト状のものだ。一面粒々状のものが見えている。


「なるほど。材料を教えてもらうことはできるかね」

「キマメを茹でて潰したものに、塩と特別な素材を加えます。これはイースト同様、今のところ詳しくは言えません」

「ふむ。少し甘みを感じるが、砂糖の類いを入れているのではないのか」

「そういう甘みの素は一切入れていません。パンとは少し違いますがこちらも発酵という処理をしていて、その過程で甘みと独特の風味のようなものが生まれるようです」

「ほう」


 分かったような分からないような、という表情で首を傾げている。

 まあ、今までこれに似たようなものさえまずなかっただろうから、当然ではある。


「ただこのミソは今のところまだ製造の工夫を加えながら量を増やしていこうという段階で、十分な量を出すまでにおそらく数日から十日ほどかかると思われます。しばらくはこちらのデルツさんのところにだけ卸すことにさせてもらいます」

「そうか」

「ああそれと、これも試してもらえますか」

「うん?」


 食べかけの深皿に、小さな皿から赤いものを少量振りかける。

 アヒイの実を乾燥させて、細い輪切りにしたものだ。

 ひと匙口にして、ジョルジョは頷いた。


「うむ。辛みが加わって、また別の風味だな。これはこれで旨い」

「はい」

「この赤いものは、特別な香辛料かね」

「近くの森で採れる、アヒイという植物の実です。これも売れるものなら売り物にしたいと思います」

「うむ。少なくともこの料理には合うから、売りようもありそうだな」

「はい」

「よくここまで思いついて、工夫したものだ」


 正直、内臓料理に味噌と唐辛子というのは、工夫でも何でもない。

 生前の家庭で、母親の作るモツ煮込みが味噌味だったからという、単純な理由だった。

 デルツの店の料理に改善の余地はないかという観点で考えたとき、味噌なら作れそうだという思いに至ったということだ。

 生前の世界で、これらは東洋の産物、西洋にはなかなか受け入れられにくかったという事実は、とりあえずどうでもいい。

 この店の内臓煮込みが少しでも食べやすくなったという実績があれば、そこそこ売り物になるだろうという判断だった。

 味噌味で内臓肉の癖が完全に消えるというものでもないだろうが、少なくとも塩だけのものより改善されているだろう。

 あちらでも最初の取っ付きの悪さを乗り越えれば、西洋人にもそれなりに味噌味は歓迎されたはずだ。

 イーストはまちがいなく広く受け入れられるだろうが、ミソについてはそこそこ気に入った人にだけ広まれば十分と考えている。


「イーストにミソ、アヒイの実だな。取り引きを前向きに検討しよう」

「お願いします」

「この内臓煮込みもまずここで売り出して、ミソの評判を見るということになるな。こうして見ると、うちの商会以前にデルツの店に有利な話ばかりではないか」

「ええ、このハックには何ともありがたい話を持ってきてもらったもので。実際客の反応を見てみなければ分かりませんが、大いに希望が持てるってもんで」

「価格にもよるが、パンも煮込みもまちがいなく評判を呼ぶだろうな。今までより価格を引き上げてもいいぐらいではないか」

「その辺、真剣に考えてみたいと思いやす」

「私も相談に乗ろう。ここでの売れ行きが、これらの製品の将来を決めるといってもよさそうだ。まずここでの評判を確かめて、ハックくんとの取り引きの詳細はそれから詰めるということにしたいが、それでいいかな」

「はい、そうしましょう」


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