4 ノウサギと戦ってみた
「ぎゃあ!」
辛うじて身体を捻り、小動物をいなす。
向き直ると、草地に着地したウサギは数メートルそのまま進んで、またこちらへ向きを変えた。
ウサギというわりに耳の長さはわずかで、全身の大きさは昔小学校で飼っていたものよりかなり大きい。普通サイズの犬よりは少し小さいか、といったところだ。
そして、今の衝突。おそらく額の部分だと思うが、それこそ岩のような硬さに感じられた。
【草食】【小型】などといったついさっきの情報とは裏腹に、背筋が震えるほどの恐怖が立ち昇ってくる。
向き直ったウサギは、すぐにまたこちらへ突進してきそうな様子だ。
「ま――待って、タンマ。落ち着いて話し合おう」
などという呼びかけに、応じるはずもなく。
たちまち相手は、勢いよく疾走を始めていた。
「わああ!」
恥も外聞も、あったものではない。
そのまま敵に背を向け、逃走を開始する。
今の一撃で、左腕は激しい痛みを訴え続けている。まったく判断はつかないが、骨に異状はないか心底案じられるレベルだ。
今の攻撃を脚に受けたら、動けなくなるかもしれない。
腹に受けたら、悶絶しそうだ。
頭に受けたら、よくて脳震盪、生命が危ぶまれる事態にもなりかねない。
そんな分析などなどよりも、とにかく今の激痛に恐怖しきって、全身全霊で逃亡以外の選択が考えられないのだった。
しかし、走る速度は明らかにあちらの方が上だ。
思い惑う暇もなく、すぐ斜め前に見えていた大きな苔むす岩に向けて、跳躍。
一メートルほどの高さだろうが、その
振り返ると、間髪を入れずウサギが跳び上がってくる。
その脳天へ、手にした棒を夢中で振り下ろす。
ガコン、と硬い衝撃。たちまちウサギは草の上に転落していった。
――やった、仕留めたか?
安堵も束の間。一瞬止まることさえなく、反動のままにウサギは草の中を数メートル進み、またこちらへ向き直った。
今の打撃の効果は、ほとんどなかったらしい。改めて助走を始め、こちらに攻撃を続けるつもりだ。
まるで恐怖映画の、不死身の怪物のように。
「待て――冷静になれ。無意味な戦闘はやめにしよう、な?」
もちろん聞く耳は持たず、また勢いよくスタート。
ぶうん、と風を切る音が聞こえそうなほどに。
「わあああ--!」
完全に恐怖に駆られて、両手を振り回す。
『収納』から取り出した掌に収まるサイズの石を握り、相手に投げつける。
次から次へと取り出し、投げつけ、くり返し。
幸い、その一個がウサギの頭に命中し、足を止めることには成功した。
そのまま夢中で投石を続けると、ようやく諦めたように敵は踵を返して去っていった。
がさがさ足音が遠ざかり、緑の中に後ろ姿が消えていく。
その気配が消え、ややしばらく経って。
ようやく岩の上に腰を落とし、深々と息を吐いていた。
「はああああ――」
助かった。
そんな安堵の中、まだ恐怖は去らず。
落ち着きよりも先に、泣きたいほどの情けなさが込み上げてきた。
両手で頭を抱え、必死に涙を堪える。
「何だよお、これえ……」
自分は、こんなにも弱いんだ。
相手は、【草食】【小型】の動物だというのに。
おそらくこの森の中に、あれより危険な動物はいくらでもいるんだろうに。
あれだけで、手に負えないのだ。
あらん限りの力と手管を使って、追い返すのがせいぜいなのだ。
さっき、そのまま地上であのウサギの第二撃を受けたとして、この手にした棒で防ぎ切れたか、まったく自信がない。
この岩の上に昇って斜め上からの迎撃だったので、相手の跳躍に重力の助けがあった分、何とか打ち据えることができたのだ。それでもあの石頭に、ほとんど損傷を与えることもできなかったようだ。
そのままあの攻撃を何度もくり返されて、ずっと棒だけで防ぎ切れたという自信も持てない。最後の手段『収納』の石礫を使い果たして、ようやく追い払うことができたのだ。
つまるところ、現有の精一杯の手段で、辛うじて。
仕留めるなどほど遠く、追い払うのがぎりぎりやっと。
――これが、現状なんだ。
この森の中に、他に何がいるのかは分からない。しかし、あのウサギよりも強力な獣がいない、などという楽観はどうしたってできそうにない。むしろ、あのウサギを餌にする肉食動物が存在すると考えるのが、自然だろう。
例えば、熊とか、狼とかのような。
あのウサギよりも力が強く、さらに運動速度がある肉食獣に狙われたら、まず絶対に撃退は不可能だ。
いやそんなこと、最初から分かりきっているのだけど。
とにかく今、自分はウサギにさえ敵わないのだという現実を、まざまざと思い知らされたのだ。
この先、どうやって生き延びていったらいいのか、茫然自失しかない思いだ。
「何だってあの
――この僕に、何処まで恨みがあったんだ?
到底、この森の獣の糧としようとした、以外の意図が思いつかない。
「くそ、くそ――」
恨み、つらみ、呪詛の数々は次々と心中に湧き起こるが。
しかしそんなことを続けていても、何の足しにもなりそうにない。
こんな岩の上にしゃがみ込んで。
この高さ、とりあえず、さっきのウサギが戻ってきた程度なら迎撃の役に立つかもしれないが。
もし背後から熊でも近づいてきたら、飛び下りて逃げる動作をとるだけ時間のロスになりかねない。
まだ陽は高いようだが、このままここで夜を迎えたら、どんな危険が寄ってくるか想像も及ばない。
今のうちに移動して、少しでも安全な場所を探すべきだろう。
しかしそうは思っても、なかなか足に力は戻らないのだった。
あのさほど大きくもないウサギへの恐怖だけで、身が竦み続けているのだ。
――情けない。
小学生の頃野良犬に追われ、公園のジャングルジムの上に逃れて震えていた経験を思い出す。
十年近くも前のことだったはずだが、まるで自分はあのときからまったく成長していないかのような。
あのときは間もなく犬も飽きたように離れていったし、そうでなくてもそのうち誰か大人が通りかかって助けられた希望はある。しかし今のこの状況は、そんな望みも持ちにくいと思われる。
飢えた肉食獣が近づいてきたのだったら、そうそう容易に諦めてはくれないだろう。加えて、誰か人間が通りかかって助けてくれるという可能性は、まず望むべくもなさそうだ。
とにかくここでは、自分で何とかするしか方策はないのだ。
「それにしたって――どうせいっちゅうんじゃ……」
あの神様に選択肢を与えられて考慮したのは、ついさっきのように思われるのに、また遠い昔のようにも感じられる。
実を言うとあのとき、③の「成仏」を選択する思いにもかなり傾きかけてはいたのだ。
ただ、あの
その勢い選択の結果が、この有様だ。
一度「成仏」を選択しかけていたのだから命などそう惜しくはないのではないか、という気もしないではないが、どうもそうはいかないようだ。
さっきのウサギとの攻防、あれだけで前世ではまず経験したこともない生命の危機を実感して、それが去った今、命を失うことへの恐怖だけがまざまざと残っている。
何よりもこの森で肉食の獣に襲われ、まだ意識のあるままバリバリと食われていくなど、想像もしたくない怖ろしさだ。
とにかく生き延びる道を探す、今はそれしか考えられない。
「おし!」
紛れもなく、ただの空元気、なのだけれど。
気合い込めを形にすべく、掌で右頬をひっぱたく。
――めそめそいじいじは
足の竦みは止まないけれど。いつまでもこうしているわけにはいかない。陽のあるうちに、できることをしておかなければ。
一応左腕を動かしてみると、感触として骨が折れているということはなさそうだ。強い打撲といったところか。袖を捲ってみると、青い痣になっている。
今は治療の当てもない、放置の他はないだろう。
そろそろと、岩の上から足を下ろす。
草地に身を立て直して、辺りを見回す。
少し考えて、今乗っていた岩は『収納』しておくことにした。
またウサギに襲われた場合、この足場は有用だ。また、他の用途もあるかもしれない。
おおよそのところ〇・五×一・五×一メートルの直方体といった形で、疑いなくこれまでで最大の収容物だが、あっさり消えてくれた。
また『収納』の際「岩以外は要らない」と念じていたら、消えた後の地面にごっそり緑の苔が落ちていた。試しにまた今の岩を取り出してみると、さっきまでの苔むしや土汚れ、枯れ葉の貼り付きなどがすっかり表面から消えている。
つまり、そうした『選択収納』のようなことができるらしい。
いろいろ工夫のしようがありそうだ。
岩を『収納』し直し、また棒で草をかき分けながらさっきの続きで歩き出す。
意気揚々、を演じて足運びを進めたつもりだが。
少し離れた先に動くものの気配、遠くに吠える何かの声。
そんなものを感じとるたび、びくりと歩みは止まっていた。
それでもそのたび何とか気を奮い直し、がさがさがさがさ先へと進む。
なお当然ながら、道中礫用の石の補充は忘れない。
何分、何時間、経ったか分からない。見た目ほとんど変わらない木立と、草叢ばかりが続いた。
そのうちふと、目の端にちらり光るものを感じた。
見回すと、光は消えている。代わりに、その方向に立つ樹木が今まで見てきたものと違うことに気がついた。
目を凝らすと、その枝に拳ほどの大きさの赤っぽい実が成っている。見ていると、その実がかすかにちらちら点滅よろしく光っているのだ。実際の光ではなく、さっき経験した『鑑定』対象を示すものと同じのようだ。
つまり――。
【ソルドンの実。地球のスモモに近い。食用可。】
という結果が得られる。つまり『鑑定』様が気を効かせて食用になる果実を光で教えてくれた、ということになるらしい。
「おお!」
――感謝。
草をかき分けて近づき、手を伸ばす。
何とか手の届いた一個をもぎ取る。薄い皮をむくことができ、ここは『鑑定』の【食用可】を無条件に信じることにして、白っぽい桃色の果実にかぶりついた。
「美味い」
この世界に来て初めて、口に入れることができたものだ。
口も喉も腹も、
味はかなり酸味が強いのだが、その中のかすかな甘みだけで十分満足できるレベルだ。
ただし、一個を平らげてもほとんど腹持ちは感じられない。むしろこれを腹に入れたことで、今までさほど緊急に思われていなかった空腹感が募ってくるかのように思えるほどだ。
続けてもう一個を腹に収めて、わずかに満足。
見回すと、同じ樹木は近くに三本ほどあるようだ。
ただそれで合わせても、手が届いて収穫できる果実は十個ほどだった。もう少し上に成っていて見えるものはあるのだが、木が細いのでよじ登ることもできない。届かせてもぎ取る道具もない。
何とか採取した十一個で、ここは諦めるしかないようだ。
採った果実は『収納』することができたので、そこは離れることにする。
今後大事に口にするようにしていけば、数日は飢えと渇きを抑えることができるかもしれない。
それからまたしばらく、草の中の行軍が続いた。
喉の乾きも空腹感もまた少しずつ戻ってくるようだが、ここは辛抱して足を運ぶ。
気がつくと、何処かからさらさらという水音らしきものが聞こえてきていた。
右側の木立の隙間に目を凝らすと、少し先に開けた空間があるようだ。
何とか足の踏み場を探し、安全に気を払いながら、そちらを目指す。大きなブナの木の幹を回ると、いきなり明るさが広がっていた。
二メートルほど下った先に岩と砂が混じった平地が数メートル幅で広がり、その向こうに川が流れている。川幅は三メートルほどといったところか。急流ではないが、そこそこ白波のようなものを見せながら向かって左側へ流れているようだ。
向こう岸にも数メートル幅の河原が広がり、その先はまた森に入っていくらしい。つまり、森と森との間に十メートル程度の低地があり、そこそこの川の流れと岩だらけの河原になっているわけだ。
とにかく何より先決なのは、その水が飲用になるか、見極めることだろう。
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