3 身の周りを確認してみた

 目を開いたら、人影一つない森の中だった。


 まあ最後のテンカウント中に選んだのは、当然ながら他にどうしようもなく②だったわけだけど。

 会話の途中からこちらも相手も疑問の余地なくその前提でやりとりをしてきたわけで、そこに不思議も後悔もない。

 ただ――。


――ここが『君にいちばんふさわしい場所』だと?


『ふさわしい場所』について具体的に質問も要望も出していないので、今さら文句を言える筋合いでもないのかもしれないが。

 それにしても、どういうわけでここが『ふさわしい場所』認定されたのか、膝つき合わせてこんこんと問い詰めたいところではある。

 今からそう思っても、後の祭りではあるけど。


――いや、正確にはそうではないのか。


 さっきの暗転の直前、あのとっぽい『神様』様の声が頭の中に響いてきたのだ。


『もう一つだけ、大サービス。これからの君の人生の中で一度だけ、ボクを呼び出すことができるようにしておこう。一度だけ、ボクに質問なり要望なりできる。要望を聞けるかどうかはまた別だけどね』


 という。

 つまり、質問の機会はあるわけだ。

 ただそれが生涯一度だけ、と言われるとやはり逡巡してしまう。

 ずっと老後まで権利を使わずにとっておくというのもどうかとは思う、使うならまだ訳の分からない今のうちという気もするけど、やはり一度きりと言われるとよくよくの場合の切り札と思ってしまうわけだ。

 たとえば、この森から出る方法がどうしても見つからない、もう生きるすべも失われた、という場合といったところだろうか。

 その前に、少しでも自分でできることはやっておくべき、と言えるだろう。

 そのために。

 まずは、自分の身の周りの確認だ。

 湿り気のある草の上に座り、大きな木に背を寄せて、一息落ち着ける。


 とりあえず、自分の身体と身なり。

 鏡がないので顔は分からないけど、手足は以前より筋肉質ふうに引き締まっている気がする。地肌は少し白いところに、いくぶん日焼けしているという感じだ。

 着ているものは、麻ではないかと思われる材質の長袖シャツとやや太めでだぼつくズボン。シャツの裾を中に入れたズボンの腰は同じ材質らしい紐で縛って固定されている。

 ズボンの裾も縛って絞られ、獣の皮製らしい靴を履いている。

 かのとっぽい兄ちゃん神様の言を信じるなら、この世界の人間が山を歩く際の標準と考えていいのか。

 まあ少なくとも貴族とかではない、平民としての標準なのだろう。

 上は長袖のシャツ一枚。下は猿股みたいな下着とズボン。

 これでさほど寒さを感じないのだから、暖かい季節なのだろう。

 他に、持ち物などはない。

 これもかの兄ちゃん神様の言によれば、『収納』の中に最低限のものが入っていることになっている。


――『収納』――どうやって使うんだろう。


 何か呪文でもいるのかと考えていると、頭の中にぼんやり浮かんでくるものがあった。『収納』の中身らしい。

 しかし、なんとも少ない。

 とりあえず『取り出し』と念じてみると、それらのものが目の前の地面の上に現れた。


 毛布? 大きさは全身をくるむ程度だが、日本の常識のそれと比べるとはるかに粗末な材質のやや厚手の布。

 紐――ズボンの腰に締めたものと同程度の、二メートルほどの長さ。ベルトが切れたときの替え用か。

 銀貨らしきもの、十枚。


 それが、すべてだった。それ以上頭にも浮かばないし、『取り出し』と念じても出てこない。

 つまり。

 食べ物もない。

 飲む水もない。

 火を点ける道具もない。

 獣から身を守る武器も、植物採取する刃物もない。

 ――というわけだ。

 銀貨にしても、どれだけの価値のものか分からない。

 その手の小説ノベルだと、銀貨一枚が千円程度に該当、というものが多かっただろうか。もしそうだとすると本当に生存必要の最低限、宿で数泊、食事数回分になるかどうか、といったところになりそうだ。


――あのヤロ、本当に、掛け値なしで必要最低限のものしか入れていないと?


 せめて予想より銀貨の価値が高ければ、とは思うが。

 今はまず、それ以前の問題だ。

 見渡す限り、その銀貨を使う当てさえまったくないのだから。

 生存のためには、水と食料の確保から始めなければならないだろう。

 見上げると、木の茂った葉の向こう、空は晴れ上がり陽は高いようだ。この薄暗い森から出たい気は逸るが、出たら出たで熱中症の恐れ、喉の乾きなどに悩まされるかもしれない。とにかく早期に飲み水を見つける必要がありそうだ。

 何となくという程度ではあるけど、やや遠くから水の音が聞こえている気がする。そちらへ向かうべきだろうか。


――いやいや、慌てるな。


 ちゃんと確証を得たわけではないが、かの兄ちゃん神様の言葉を信じる限り、地球とは似て非なる異世界へ来ているはずなのだ。この先、どんな危険や思いがけない事態に遭遇するか、分かったものではない。

 こちらとして頼れるものはかく言うところの徒手空拳と、『収納』『鑑定』なる能力だけなのだ。


――『言語』は野生動物相手に役立たずだと、神様のお墨付きだし。


 この『収納』と『鑑定』がどの程度どのように使えるものなのか、確かめておくのは行動開始前に必須だろう。

『収納』に関しては今し方、まちがいなく存在することだけは確かめた。

 毛布と紐と銀貨だけだが、取り出すことができ、また収納し直すこともできた。

 この能力の細かい性能などについてはまだまだ検証の余地があるが、差し当たってはもう一つ、『鑑定』の方を確かめておくべきと思う。

 寄りかかっていた木に目を向け、『鑑定』と念じてみる。

 ほぼ即座に、目の前の空間に半透明のディスプレーのようなものが浮かび上がった。


【森の木。この森はこの種類の木が大半を占める。】


 と、文字が浮かぶ。

 ちょっと情報があっさりし過ぎているな、と思って凝視していると、表示が変わった。


【チャオークの木。日本のコナラに近い。高さ約三十一メートル、太さ約一・六メートル。木材として木工品、薪などに有用。食用になる実などはない。】


――ふむ。


 確かに、実用的な情報が見られるようだ。

 こちらの要求に合わせて、詳細の度合いが変わってくれるらしい。

 この木の実は【食用にならない】ということだが、そのうち食用になる種類のものが見つかるかもしれない。歩きながら何度か確かめていこうと思う。


 改めて辺りを見回すと、雑草や苔がほとんどの土の表面を覆い、ところどころに木の枯れ枝が落ちていたりする。

 試しに草や苔を『鑑定』してみたところ、【有毒ではないが食用にならない】という返事。今はこれが分かれば十分だ。

 さらに空気中に目を凝らしていくと、【無名シダ植物胞子】【齧歯げっし類伝染性気管支炎ウイルス。この濃度では無害。】などという表記が見えてきた。

 つまりはほぼちりレベルで目で捉えることができるかどうか、というものまで『鑑定』はできるらしい。ただしそれもこちらの要求次第のようなので、当然ふだんからそこまで見ようとは思わない。胞子やウィルスまで常に周囲にちらちらしていたら、ノイローゼになっても不思議じゃない。

 とりあえず【酸素】【窒素】などといった分子原子レベルまでは表示されないようだ、というところまでは確かめる。

 一応空気を『鑑定』した中に、【酸素濃度正常】とは出たけど。

 ちなみにこうして『鑑定』する際、対象の草や苔などがちらちら光って見える。対象の認識をまちがいなくするためだろうか。

 それこそ小説ノベルの常識や何となくの体感から、この光も半透明のディスプレーも、他人には認識されないものなんじゃないかという気がする。周りに他人がいないので、今は確かめようもないわけだが。


――『鑑定』については、こんなものか。


 落ちている枝は【チャオークの枯れ枝】とのこと。見繕って、野球のバットくらいの太さ、長さは少し長いか程度のものを拾い上げる。とりあえず木刀替わりの武器のようなものにはなるだろう。

 刀のようなものを振るうなど、もちろん実生活で経験はない。高校の体育の選択武道で剣道を選んで、教官から「構えだけはまあまあ見られる」というお墨付きを得た程度だ。

 拾い上げた枝は、念じると『収納』することができた。

 地面の草や苔は、念じても『収納』できない。

 土から引き抜いた草を地面に置いて試すと、『収納』できた。

 管理者神様の言っていた通り、『生き物の収納は不可』というわけだ。

 しかし多くのその手の小説ノベルにあるのと同様、採取した草の類いは『収納』できる、ということらしい。

 この区別、重要だ。


 ここまでの結果を頭に刻んで、歩き出してみる。

 森の中に人が歩いたらしい跡はないが、獣道程度に草の茂りが少ないところがある。そんな道なき道を辿って、水を探してみよう。

 歩きながら、落ちている小石を見つけて何度か『収納』を試してみた。草に比べると、獣などに遭遇したときつぶてとして使えるかもしれないので、相当数持っていくことにする。

 なおここまで試してみて、『収納』『取り出し』の性能のようなものが少し分かってきた。

『収納』はそのものに触れず、少し離れていても可能だ。

 試してみた限り、小石の収納は二~三メートル先のものが限界らしい。ものの種類や大きさ、重さによっても変わるのかもしれないが、とりあえず暫定「二メートル先まで可能」と記憶しておくことにする。咄嗟の場合に失敗するのは危険になる可能性も考えられるので、安全確実な距離、という認識だ。

 不思議なことに、『取り出し』はもっと離れたところまで可能だった。およそ十メートル程度先、かなりこちらが指定した正確な位置に出現させることができる。

 もしかすると、大きなものや危険を伴うものでも無事取り出すことができるようにという、親切設計なのかもしれない。

 取り出し位置が正確だというのも、なかなかにすごい。

 二メートルほど前方の地面に半ば埋もれていた大きめの石を『収納』し、すぐにまた同じ位置に『取り出し』してみると、何事もなかったかのように元通りの状態になった。

 よく見ると、地面に開いた穴より埋もれていた石の幅の方が大きいのに、『収納』で消しても土は崩れず、『取り出し』で戻しても穴の口が潰れたようでもない。つまり、『収納』時に引っ張り出したわけでもなく、『取り出し』時に押し込み直したわけでもない。そのままの場所から消え、また元の位置に出現したということになりそうだ。そういうものなのだと、理解しておくことにする。

 また一方で、手に握る形を用意してそこに枯れ枝や小石を『取り出し』してみると、すぐに振ったり投げたりすることができる。咄嗟の場合の武器として使えそうで、ありがたい。


――ずいぶん、言葉にすると長々と検証してきたけれど。これからの自分の生存がかかっているのだから、当然だよね。


 この『鑑定』と『収納』の実態把握が、この先自分の命運を握っていると思うのだ。

 むしろ、過去に読んできた小説ノベルの相当数の登場人物が何故、最初にこの程度の検証もなしに魔物狩りなどの行動開始をできるのか、理解に苦しむ。

 検証という意味ではまだまだ足りない気もするが、今いるこの場所が安全なのかどうかの保障もない。安全な場所と水の確保も、この検証に劣らず優先事項と思われる。

 そこまで確かめて、木刀替わりの枯れ枝はそのまま手に握って歩き続ける。

 足首より上まで繁る草をそれでかき分けて、できるだけ慎重に足を運ぶのだ。突然何処かから、毒蛇の類いが現れないとも限らない。

 履いている革靴は日本のマムシ程度なら防げる気もするが、それ以上大型だったり凶暴なものがいるのかいないのか、何も分からない。

 ズボンの裾が紐で縛られているのは、マムシ対策でそんな注意を聞いたことがあるので、同じようなものなのだろうと思える。

 とにかくも、がさがさ草をかき分け、辺りの気配に耳を澄ませて、十分すぎるほど慎重に進んでいく。


 がさ、と気配を感じたのは、それから少ししてからだった。

 前方の草の中、何かがいる。

 びくり、と足を止め、目を凝らす。

 暗い緑の奥にわずかに覗けるのは、黒っぽい茶色、それほど大きくない動物のようだ。

 かすかにでも見えたので『鑑定』は可能か、試してみる。


【ノウサギ。草食の小型動物。食用になる。】


【草食】【小型】【食用になる】という単語に、心が躍る。


――おう、初めて見つけた、食料候補!


 そんな感慨に、わずかに気が緩んでしまっていた。

 気がつくと、小動物は一散にこちらへ向けて疾走を始めていた。

 がさがさがさと、草を踏み分け。

 見る見るうちに、距離を縮め。

 慌てて応戦を考えたこちらの目の前、二メートルほど先で、いきなり跳躍。


「わあ!」


 身をかわす暇さえなく、衝突に備えて前にかざした左前腕に、激痛が走った。

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