79 意を決してみた

「お嬢様が、お話ししたいと仰せです」


 二階の自室に来てもらいたい、ということらしい。

 若い侍女に先導されて、邸の奥へ招かれることになった。

 緋色の絨毯が敷き詰められた廊下を進み、階段を昇る。その各段にも二階の廊下にも、毛脚の短い絨毯はまるで一枚のように続いていた。

 一つの扉の前に、こちらもまだ若い侍女が二人、こちらに向かって立っている。

 軽く会釈のような動作をして、案内してくれた侍女はその扉を静かに叩いた。


「お連れしました」

「どうぞ、入っていただいて」

「はい」


 木製のレバーのような把手を捻ると、扉は滑らかに外向きに開いた。

「どうぞ」と手を差し向け、中に導かれる。

 一人だけ足を踏み入れたところで、背後に扉は閉じられた。


――わあ。


 中はいかにも若い女性の私室、といった趣だった。

 壁は白、床やカーテンなどは一面桃色を基調とした花の意匠で飾られている。何となく、漂う甘い香りも野の花を思わせるようだ。

 カーテンが閉じられているが、数箇所に置かれたランプのため、十分な明るさだ。

 部屋の広さは、二十畳程度もあるのではないか。右手に小さな机と椅子、中央にティータイム用途を思わせる椅子とテーブル。左手奥に、天蓋つきの大きなベッド。

 さらに左手手前奥にドアがあるのは、もう一部屋に続いているのか。

 そのベッドの上に、お嬢様は腰かけていた。

 ノースリーブで肩まで露出した薄ピンク色の、寛ぎの装いで。

 女性の、特にこの世界の上流階級の衣装には詳しくないが、何となくドレスというよりはネグリジェとかベビードールとか呼ばれるものの方に近い、という気がする。

 ただそれほど透けるように薄い布地というわけではないのが幸いだ。まあそんな都合いい布素材が存在しないのかもしれない。

 ベッドに腰かけ裸足の脚を垂らした格好で、マルゴットはにっこり笑いかけてきた。

 ぽん、とすぐ隣り、シーツの上を手で叩く。


「どうぞ、こちらにいらして」

「いえ――」目をしばたき、さすがに足は動かない。「そんなご無礼は、しかねます」

「遠慮しなくても、いいのですよ。今日のお礼をしたいのです」

「はあ……」


 にこりと、フランス人形を思わせる美貌が、微笑む。

 扇情的な装いと合わせて、なかなかな破壊力だ。

 さすがに男の本能で、そちら向きの引力を相当量体感してしまうが、何とか足を踏み堪える。


「ハックさんとは、もっと親しくなりたいのです。どうかお願いを聞いていただけませんか」

「はあ……」


 何となく、少しばかり、甘やかに頭を揺らされながら。

 何処か醒めた思考を、巡らせていた。


――こんなシチュエーション、それこそ何かの小説ノベルなんかでお目にかかったよなあ。


 そんな読書の際に覚えた違和感が、蘇る。

「お礼」と「お願い」は両立するものなのか?

 何で「お礼」される立場の者が、「お願い」や「要求」を突きつけられなければならないんだ?

 まあたいてい小説ノベルの中では、相手の女性がヒロイン格で主人公もまんざらではない思いなので、そのままなし崩しになるのがテンプレなわけだが。

 何故置かれた当事者は「断る」という選択肢を持つことができないのだろう。

 ――などなど。

 激しく自覚している悪い癖で、こんなとき、現実逃避的に他所のことを考えてしまう。


「これが一目惚れというものでしょうか。あなたに会った瞬間から、どうしても親しくしていただかなければ済まない、そんな気持ちなのですよ」

「はあ……」

「わたしでは不足ですか? 領主の娘という立場が重いということでしたら、捨てても構いません。何でも、あなたのお好きなように――」

「いえ、こんなお美しいお嬢様は、私にはもったいなすぎるかと存じます。どうかご容赦を」

「そんなもったいないなどと、思う必要はありません。あなたの好きなようにしていいのですよ」


――ああこれ、ダメなやつだ。


 まずまちがいなく、こちらの言い分に耳を貸す気はない。

 こちらも男の端くれ、まったく気を惹かれないわけでもない。

 前世で言う「据え膳食わぬは」などという声が、遠く聞こえる気もしてくる。


――しかしこれ、ダメやろ。


 どう考えても、据え膳頂いて逃げられる状況ではない。

 相手も、立場を捨てるなどできようもないし、本音でその気もないだろう。

 そっと、まだ扉前に立った位置から後ろに手を回し、ノブを捻ってみる。

 戸は、動かない。外から施錠されているのだろう。

 これだけでも、外にいた侍女たちがグルなのは明白だ。

 それだけならまだ、お嬢様のわがままを聞いた、ということであり得なくもないかもしれないが。

 もう一つ、冗談ででも手を出したら命取り、という条件が見えている。


「どうしたのです、遠慮することはないのですよ。ここまで言わせて、女に恥をかかせるものではありません」


――何となくだんだん、清純なお嬢様らしくない言葉遣いになってきたような。


 とりあえずも、「お礼」と「お願い」を両立させる状況にはいろいろ考えられるだろうが。大きく分けて、二つの可能性が考えられる。

 相手が、何の疑問もなくその二つを両立させることのできる性格である。

 前提となる「お礼」の必要が存在していない。

 といったところだろうか。

 見るからに女性らしい外見の相手の性格が前者である可能性は、十分にありそうだが。

 後者の可能性も、かなりのところ膨らんできている気がする。

 何しろ――。


「わたしに魅力を感じない、ということですか」

「いえ、抗いがたい魅力を覚えないでもないのですが――その、私には心に決めた女性がおりまして」

「あら、お付き合いされている方が? そのようなことは聞いて――あ、いや」

「付き合っているわけではないんですけどね。まあ、ただ一方的に気にしている段階とか、そんなところですが」

「それならそんな方に義理立てすることはないではありませんか。改めて目の前のこの女に目を向けて下さいませ」

「いや、その――」


 言っていて、いい加減面倒になってきた。おそらく、このまま時間をかけるのは得策ではない。

 諦め、意を決するしかない、と思い切る。


「せめて、そちらの扉の奥に人がいない状況なら、少しは違うのですがね」

「は――?」


 お嬢様の目が、丸くなる。

 当然、気がつかれているはずはないと思っていたのだろう。

 普通なら、気がつかない。勘が鋭いわけでもない身で、怪しい気配を察知できたということでもない。

 しかし、まちがいなくいるのだ。奥の扉の向こうに、隠れた人物が。

 勘が鋭いわけではない。気がついたのは、ただの習慣のせいだ。

 この世界の建築、豪華な領主邸とはいえ、前世のような精密さは望めない。閉じたドアの横や上下に、わずかな隙間が残っていたりするのは普通のことだ。

 こちらから見て左手前奥の扉、何に続いているのかは分からないが、ドアの下にわずかながらの隙間がある。

 それでも照明を消していれば暗い奥、何が見えるはずもないのだが。

 こちらの習慣なのだ。森の中だけでなく、町中などでも無意識なままにときどきしてしまう。例の『鑑定』、「ノウサギ以上の動物や魔物を知らせよ」というやつを。

 それが、そのドア方向を見た瞬間、作動していた。

 ドアに身を寄せ息を潜めていて、下のわずかな隙間に足が覗く姿勢なのだろう。暗くて肉眼では見えないが、『鑑定』が光で知らせてくれるのだ。

 さらに『鑑定』すると、


【人間。男。二十三歳】


 と出る。

 しどけない姿のお嬢様の寝室に、若い男が潜むなど。護衛だとしてもなかなか不自然としか思えない。

 招かれた男客が不埒な真似に及んだ瞬間、お嬢様が「あーれー」と叫び、飛び出してきた護衛に取り押さえられる、というストーリーができ上がっていると考えるのがはるかに自然だろう。

 もちろん前段の「不埒な真似」が実際になかったとしても、同様の展開は可能だ。


「やれやれ、つまらねえところに気が回る奴だ」


 低い声とともに、その扉が開かれた。

 現れたのは、簡易鎧に帯剣した、若い男だ。一人だけ、らしい。


「よけいなことに気がつかなけりゃ、ちょっぴりだけでもいい思いをできたかもしれないのによ。お嬢様に乱暴をしようとしたと、取り押さえられる前に」

「乱暴をしようとしたにしても、時間がなさ過ぎませんかね、まだ。僕がこの部屋に入って、四半時も経っていませんよ」

「そんなことは、関係ないさ。確かにもう少し時間をかけた方が、何処にも信じられやすいかもしれんが」

「もったいない選択をしたこと」お嬢様は苦笑で溜息をついた。「大人しくすべて言うことを聞くなら、遊び相手の一人に加えてあげてもよかったのに」

「それは残念でした」

「今からでも、考え直さない? 持っているものを渡してわたしのものになるか、領主の娘に無礼を働いた罪で全財産を没収されるか、どちらが得だと思うの」

「一応、その罪が成立するかどうか、確かめてみたいですね」

「無理よ。部屋から出られないままで、この後乱暴行為が行われた物音だけでも立てたら、誰も疑わない」

「そうですか」


 もうあからさまに後ろを向いて、ドアノブを握る。


「分かっているんでしょ。ドアには鍵がかかってるの」


 くい、と捻ると。静かにノブを押すことができた。


「開きましたよ」

「え?」


 ドアノブの奥の金具類を『収納』し、開いてすぐに戻しておく。それだけの作業だ。

 すぐ外に並び立っていた三人の侍女に、にこり笑いかける。


「話は、終わりました」

「は、はあ……」


 当然ながら、話がこんな短時間に平和裡に終わり、施錠した扉が開くとは思っていなかったのだろう。

 三人ともに、目を丸くして固まっている。


「待ちなさい! まだ話は終わっていない」


 マルゴットの叫び声は聞こえてくるが。気にしないで、廊下を歩き出す。

 しかし当然、そのまま立ち去らせてもらえるはずもなく。


「貴様、許せん、待て!」


 男の野太い声に、どたどた走り出してくる足音が続く。

 無視して歩き続けると、廊下の先、下り階段の手前に兵士の姿が数人集まってきていた。後ろから追ってくる護衛と、同年代だろうか。

 それより少し年輩らしいやはり帯剣した何人かが、騒ぎを聞きつけてだろう、階段を昇ってくる。先日魔物退治の褒美を受けた際臨席していた顔や、さっきともにここへ来た中隊長もいるようだ。

 普通にその間を抜けていくことはできそうにない。

 説明をして、聞き入れてもらえるだろうか。

 かなりの荒療治をするなら、逃げられないこともないかもしれないが。

 どうしようかな、と考えていると。

 背後に追いついてきた男が、叫んできた。


「お嬢様を侮辱した貴様、許せん。決闘を申し込む!」

「はあ?」


 決闘?

 思いもしない単語が、出てきた。

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