59 休んでみた
九の月も後半に入ると、雨の日が少なくなってきた。
日本で言う「秋晴れ」という表現がしっくりくる、澄み渡った青空を見ることが多くなる。
新しいパンについてはプラッツ町内にすっかり定着し、隣の領都マックロートにも広まり始めている。三商会の販路は、拡大の一途を辿っているようだ。
大げさに言うと商会長たちも領主も、笑いが止まらないという状況になっているらしい。
売れ行きの状況を漏れ聞く限りで、どうも元を卸すこちらよりも商会の利益の比率がかなり大きくなっているようだが、これは決め事として仕方のないところだろう。とにかくも孤児たちにとって、この先の生活に不安のない収入が得られている。
またこの辺、税制の問題が入ってくるので、商会との損得比較について何とも判断のつかないところもあるのだ。
簡単に言うとこの領では、農家と商会に対してだけ所得税のようなものが課せられている。個人経営規模の商売については、納税の義務がないのだ。住民税のようなものも存在しない。その代わり必要に応じて、徴兵や壁工事人足などのかなり強制的な徴集などがある。
よって現状、ここの孤児たちにとって、収入はそのまま懐に入れることができることになるわけだ。
この辺いい加減にしておくわけにはいかないので、イザーク商会や口入れ屋にいろいろ話を聞いているし、そのうち役所の方にも確認に行きたいと思っている。
保存期間を延ばしたイーストの実用化の目処が立ったので、ジョルジョに報告する。
そうすると、また領主と三商会長を交えた会合に呼ばれることになった。
イーストが夏場でも七~十日程度日保ちが効くことになった。そうするとこれで、王都まで輸送してパンを焼くということが現実的になる。
新しいパンの評判が隣の領都マックロートから南へ広がり、王都にも届き始めているという。ヘラー商会の王都支店に問い合わせが増えてきていて、販売開始が待ち望まれている現状らしい。
まずヘラー商会で売り始め、続いてアイディレク商会とイザーク商会も本格的に新しく王都に店を出して販売を始める。この両商会にとってはかねてから念願の王都進出の実現だし、現状のイースト生産量と三商会への配分だと、必要以上に競合せず販路を広げることができるはずだ。
加えて、領内での税収増は未だかつてないほどの規模になりそうだ。
というわけで、領主も商会長たちも、他の雑事は放置してでもすぐに飛びつきたい用件なのだ。
「ふむ。確かに適度に乾燥して、日保ちが効きそうな外見だな」
領主が頷き、順に商会長たちが製品を回覧する。
「使い方は、従来のイーストと同様ですか」
「そうです。生地をこねる際の水の量を多少調整する必要はありますが、すぐに慣れると思います」
「このまま増産と安定供給は大丈夫なのだろうか」
「はい。元はカビのようなものを培養させる方法ですから、順調にいけば際限なく繁殖させられるはずです」
「ふむ」
販売の広げ方については商会長たちに任せて、こちらは増産の算段に努めることになる。
夜、ブルーノとサスキアに現状を話して、こちらの態勢を確認することになった。
「ここ数日は、イーストの元を増やすのに専念することになる。今まで以上に、みんなの空き時間に協力してもらいたい」
「分かったぜ」
「元を増やした後の加工は、もう少しすると人手が足りない規模になると思う。これについては近いうち、新しい作業場と住居を借りて、イザーク商会から作業員を派遣してもらう予定だ」
「うむ、分かった」
「イーストが王都まで売り出されることになると、どうもこちらで想像していた以上の利益を生むことになるようなんだ。それを聞くといいことばかりのようだが、そうもいかないと思う。利益を生むとなると、それを狙う者が出てくるかもしれない」
「ああ……そうなるな」
サスキアは渋い顔になる。
ブルーノも難しい表情だが、まだ実感を伴わないといったところだろう。
「具体的には、金はもちろんだが、イーストと麹のいちばんの元を奪おうとするか、その作り方を知ろうとするか、という動きだな。最もありそうなのは俺を捕らえて情報を訊き出そうとすることだろうが、これは俺が自分で何とかするしかない。いざというときは逃げ足だけは自信があるから、心配しないでくれ。次に考えられるのは、他の子たちを人質にとって脅迫してくることだな。ブルーノとサスキアはとにかくそこを警戒してくれ」
「お、おう」
「分かった」
「もし俺が誰かに捕らえられたとしても、絶対こちらは放っといて、小さい子たちの無事を確保しろ。イーストや麹についてはもし盗まれても、新しく作ることができる。盗みや強盗に入られたとしても、まず護るべきはみんなの無事、次いでニールが書いた記録、イーストと麹の元、熟成中の元種とミソ、の順番だと考えてくれ」
「おう」
「俺が行方不明になったとしたら、領兵かイザーク商会を頼れ。以前と違って、俺たちのことをそこそこ重要に扱ってくれるはずだ」
「うむ、そういうことになるな」
「ただ本当の本音を言えば、イザーク商会にしても領の上層部にしても、イーストと麹の製法を独占したい気はあるかもしれない。無条件に信用は禁物だ」
「そうなのか?」
「だとしたら、どうするのだ」
ブルーノが目を丸くし、サスキアは顔を険しくする。
この先の話は彼らにとって申し訳ないことになるかもしれないが、ここに至っては腹を括ってもらうしかない、と思う。
「そちらを頼れないと思ったら、この町と領を出るしかないな。みんな、この町に絶対住み続ける、という強い理由はないはずだよな」
「まあ、それはそうだが」
「イーストがあれば、どこに行っても生活はできる。もし俺が行方不明でも、ニールの知識と記録と、イーストと麹の元さえあれば、金は稼げる。まずは隣のマックロートに移動して、それを目指してくれ。もし一度行方不明になったとしても、俺はその跡を追うから」
「いや、跡を追うって……」
「ほんと、大丈夫なのかよ」
「そこは信じてもらうしかない。しかしとにかく、これ以外の選択は小さい子を危険に曝しかねないんだ。まあ最悪の場合の話をしているわけだが、いざというとき二人は、迷わずそういう行動をしてくれ」
「むう……」
「まあ、分かったぜ」
「どうも近いうち本当に、新しいパンの情報が王都まで伝わったら大ごとになるしかないみたいだからな。ここまであっという間に話が大きくなるとは思っていなかった。そこは申し訳ない」
「まあハックのお陰で、こんなに生活が改善されているんだからな。いいことばかりとは思っていられないぜ」
「だな。とにかく今のは、最悪に備えてということだからな。覚悟はしておくに越したことはない」
「そういうことだ」
「しかし本当に、ハックは一人になって大丈夫なのか?」
「たいした腕っ節もないのに、自信を持ちすぎなのではないか」
「いやここは、本当に大丈夫なんだ。現状狙われるとしたら、俺が持つ知識なんだから、即座に命をとられるということは絶対にない」
「そうか」
「すぐ拷問にかけるということも、まずないだろう。最も考えられるのは俺を捕らえて、何やかにや交渉か脅迫かするということだ。そこでいちばん危ぶまれるのは、誰かを人質にとられることだからな。その懸念を消しておいてくれるのが、最もありがたい。人質さえなければ、何とでも交渉するなりして逃れることはできる」
「なるほどな」
「そういうことか」
何とか納得してもらえたようだ。
ここはとにかく、何が何でも呑んでもらうしかない。
はっきり説明することはできないわけだが、こちらは一人なら何とでもなるのだ。もし何処かに監禁されても、人目がなければ壁抜けすることもできる。
そういう逃亡を図るには、絶対一人きりという条件が必要になるのだ。
イーストの仕込みをある程度終えると、しばらくその繁殖を待つことになる。
本格的に製産を広げる前に、少し時間が空くことになった。
ふつうの商会などでは、職員に半月に一度程度休日が与えられるらしい。
という辺りに倣って、九の月の十八の日、こちらでも全員で一日仕事を休んでのんびりすることになった。
若年層の連中は「さあ遊ぼう」と張り切って空き地に駆け出していくが、年長の者たちは笑ってそれを見ながら本当に身体を休めることにする。
少しゆったりした後、一人で散歩に出させてもらうことにした。
もともと単独行動をしてきたので、たまには孤独に浸りたいのだ。
それを察してか、ブルーノが「ごゆっくり」と笑って送り出してくれた。
「夕方には戻るよ」
「おう」
久しぶり、というかほぼ初めてのことかもしれない。具体的な目的もなく、北の門を出る。
いつもはやや右手、北東方向の森を目指すのだが、この日は西に足を向けてみた。
草地や小さめの森を抜け。
過日、壁の造成で町側の方では来たことがあるのだが、外では初めてだ。完成した壁の端が、岩山に突き当たって終わっている。
こちらの山側ではほとんど訪れる人もないようで、草が茂り放題になっていた。
午近い晴天の下、一面緑が広がり、行く手に岩壁がそそり立っている。
見ると、もう少し山側の方に人が入れる隙間がありそうだ。
切り立ったV字型の崖の底といった格好の岩地が、上下しながらずっと先まで続いているようだ。
もしかすると、西側の平地まで歩いていけるのかもしれない。ということで、入ってみることにした。
この付近は岩山に遮られて、魔物なども西側へ抜けられないので壁建設もこの辺まで、ということになっていたと聞いたのだが。もしかすると、人間や小さめの動物なら抜けられるのだろうか。
少なくとも馬や例のガブリンなどなら両側の岩壁が迫る狭さに難渋しそうだが、あのオオカミモドキなどなら通ることもできるかもしれないな、と考える。
両側の高みまで見上げると、恐怖に駆られてくる。百メートル以上もあるのではないかという崖の上から何かが落ちてきたら、頭に命中して即死ということも考えられそうだ。
念のためということで、「頭上に落ちてくるものは一メートル上で『収納』」という指示をかけてみる。これで、透明な屋根を設置したように安全が確保できるはずだ。もちろん生物が落下してきたら防げないわけだが。
ところによっては手も使って這うように登ったり降りたりもしながら、十分ほどの進行で開けた場所に出た。
――ほおお……。
開けたとはいっても、まだ岩山の途中のようだ。学校のグラウンド程度の平地のおよそ三方を高くそびえる直立に近い岩肌が囲み、正面は先の草地に向けて開放されている。
岩肌はあちらこちらが少し不自然にでこぼこしていて、地面にいくつも大きな岩が転がっている。
どうも、石切り作業場のようなものを連想させる。
現在も続いている壁建設に使う石材を、切り出している場所なのではないか。とはいえ運搬用の台車などは見当たらず、目に入る岩の表面も昨日今日削られたという感じではない。
必要な石材はしばらく前に採掘した後なのではないか、と思う。
見渡しても、先を見通しても、人の気配はない。
――少しくらい失敬しても、大丈夫かな。
今までになかった大きなサイズの石材が、ここでなら手に入りそうだ。
ここから少しくらい切り取っても、自然への影響はなさそうだし、次に採掘作業に来る人も気がつかないのではないかと思う。
そもそもこんな岩肌から個人が大きな石材を切り出すなど、想定もされていないだろう。
試しにやってみる。
高さ二十メートル、幅三メートル、厚さ三十センチの石の板を『収納』。
それを十回くり返しても、それほど岩壁が後退した印象にはならない。
やや調子に乗って、もっと大きな岩の塊も切り出してみる。
不自然に突き出して残った周辺部分から、もう少し小さめの板やブロックをあといくつか切り出して外観を調えておく。
――こんなものかな。
収穫に満足して、先へ進む。
採掘場らしい場所から出ると、まだ山地の途中といった草地に出た。やや傾斜しながら、平地が開けている。
土が露出した道と思しきものが、ずっと先まで続いている。石材を町まで運ぶ荷車などの通り道なのだろう。
道なりに辿れば町に戻れるのかな、と思いながら、少し外れて草地を進んだ。
やや高い丘のような場所に登ると、なかなか爽快に寛げる場所に感じられ、腰を下ろした。
時刻は午を回ったくらいか。陽射しは強いが、そこそこ気分よく座っていられそうだ。
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