21 宿に入ってみた

 森への往復の際に場所を確かめておいたが、さっきの料理屋のすぐ裏手にかなり古びた木造の木賃宿がある。

 薄暗い受付台の奥に、小柄な老婆が一人座っていた。


「初めての顔だね。一人かい? うちは四人部屋に素泊まりで、銅貨九十枚だよ」

「一泊、お願いします」


 別に丁寧な言葉遣いをする必要もなさそうだが、どうも日本人の性で、口に出てしまう。

 説明を聞くと、ここには四人用ばかり十部屋あるらしい。

 裏庭側に竈が三つとちょっとしたテーブルがあるので、自分で料理して食事をするのは勝手。

 泊まり客はほとんど城壁工事の日雇ばかりだが、買ってきた材料で自炊か、近所のデルツの料理屋へ行くか、食事についてはその二つに一つだという。


「三番部屋の右手前の寝台を使いな」

「分かりました」


 料金は前払いで、宿帳のようなものもないらしい。

 銀貨一枚を渡して、銅貨十枚のお釣りを受け取る。

 薄暗い廊下を奥に進んで三番目の部屋、口入れ屋で辛うじて覚えた「三」の表記が板戸の上に掲示されていた。

 戸を開くと、六畳間程度の広さの部屋、両側に二つずつの木の寝台が縦向きに並べられているだけで、ほとんど床に足の踏み場もない。窓に向かって辛うじて一人が通行できるか、という程度だ。

 老婆の話の通り右手前の寝台だけが無人で、残り三つには壮年の男がそれぞれ寝転がっていた。

「失礼します」と会釈をして踏み込むと、三人ともちらりと一瞥しただけで、すぐに各々目を閉じている。一晩相部屋になるわけだが、挨拶や自己紹介の習慣もないようだ。

 空いていた寝台に腰を下ろし、背負い鞄を下ろして中を開きながら、状況を確認する。

 寝台は木の足がついた一応ベッドと呼んでよさそうな形状だが、上にはくすんだ木の板にようやく人一人が横になれる程度の大きさの粗い布が一枚置かれているだけだ。濃灰色の布も木の板の表面も見た目清潔とはほど遠く、砂埃がついているようだし小さな虫の類いが這い回っていて何の不思議もなさそうに思える。

 暖かい季節なので寝るに当たって上掛けのようなものもいらないらしく、三人の男はそのまま布の上で壁に向かって荷物を枕にして横になっているだけだ。


――標準的な現代日本人にとって、なかなか安眠を得るのは難しそうだなあ。


 郷にりては何とやらというか、とにかくまあ受容するしかないのだろうけど。

 向かいを見る限り、両側の壁際に縦に並んだ寝台同士では、足を向け合って身体を伸ばす。狭い通路を挟んだ向かい同士では顔が合わないように、できるだけ仰向けか壁に向かった横向き姿勢になる、というお約束のようだ。

 その例に倣って戸口側に枕にすべく鞄を配置していると、半開きの小さな板窓の外から、鐘の音が聞こえてきた。のんびりと、五つ。十七時の時報だ。

 考えていると、後ろから声をかけられた。


「通してくれや」


 隣り窓側の寝台から、青っぽい髪の男が立ち上がったところだった。狭い通路に、こちらの足を引っ込めないと外に出られないということらしい。すぐ素直に、それに従う。

 その男が戸口から出ていくと間もなく、残りの二人も頭をかき欠伸混じりの顔で立ち上がってきた。連れ立ってという様子ではないが、それぞれ外に出る用事のようだ。

 おそらく頃合いからして、夕食をとるのだろう、と思う。もう一時かそこらで日が落ちて、外は暗くなる。この宿屋の様子を見ても、夜間に十分な照明はないだろう。別に誘い合うわけではなくても皆同じ習慣で、これくらいに食事を済ますことにしているのではないか。

 一人残って見回すと、三つの寝台にはそれぞれ枕替わりにしていた薄汚れた布鞄が残されている。まあおそらくのところ、盗まれても困らない程度のものなのだろう。

 少し考えて。やはり郷にるにしても少々耐えがたい現状だと、結論に至る。

 立ち上がり、自分の寝台と上の布だけを、『収納』した。そうしてからすぐに、元の位置に取り出す。

 これで、寝台の上に虫が這っていたとしても、すべて下に落ちたはずだ。必要なものだけを『収納』と念じたので、埃や汚れなどかなりのところ寝具の表面から消えたと思う。

 まあ虫などはまたすぐに戻ってくるかもしれないが、気分的にかなり違う。何よりこんなこと、相部屋の人たちの前ではできないのだから、この機会を逃すわけにいかない。

 そんな作業を終えて、こちらも食事を済まそうと、鞄を手にして部屋を出た。


 出入口とは逆方向、奥へ進むと、やや広い土間に出た。

 一応木の壁に囲まれているが、吹きっさらしと大差ない印象の殺伐さで、丸太のテーブルが五つとそれぞれに四つずつの椅子が無造作に並べられている。今はそこに、三人、二人、一人、と青年から壮年といった男たちが腰かけて、むっつりと食事をしているようだ。

 左側に簡単な竈が三つ並び、一つだけ火の点いたところに男が一人何かかざしている。どうも、干し肉を炙っているらしい。

 そのまた奥側に置かれた瓶に入っているのは、飲み水だろう。傍らに木製のコップらしいものがいくつも置かれている。他に、自炊ができるように鍋と深皿や匙類がいくつか。自由に使っていいらしい。

 今いる者は皆、食事といっても干し肉や堅パンを囓る程度で、部屋で食べても大差なさそうだ。せめて飲み水だけは自由に摂れるということで、ここへ来ているのだろうと思われる。

 一番手前のテーブルについている三人がさっきの相部屋の面々で、会話をするわけでもなく不味そうに干し肉を囓っている。

 そのすぐ脇の竈に近づくと、隣で干し肉を炙っていた男がわずかに前を空けてくれた。どうも、と会釈をしてこちらの竈から薪をとり、隣から火を移させてもらう。行為としてまちがっていなかったようで、隣の男は表情も変えず自分の作業を続け、間もなくテーブルに戻っていった。

 火が安定したところで鞄を開きながら、相部屋の三人に声をかけた。


「すいません、ノウサギの肉を焼くんですが、一緒にどうですか?」

「ノウサギだって?」

「ええ。僕、今日初めてこの町に来たんですが、途中の森で狩ることができまして。肉屋に売った残りなんで、後ろ脚一本だけなんですけどね」

「ほう、そりゃたいしたもんだ」

「できれば、この町について教えてもらえれば、ありがたいです」

「おう、そりゃお安いご用だ」


 青っぽい髪のいちばん年かさらしい男がやや愛想よく応じ、赤髪と灰色髪の残り二人はまだ無愛想ながら頷いている。こちらの二人が三十前後、青髪の男は四十近い、といったところだろうか。

 木の棒を刺したノウサギ肉を火にかけ、コップに水を汲んでそちらのテーブルに寄っていく。


「ハックといいます、よろしくお願いします」

「おう、俺はダグマーだ」


 青髪の男は名乗り返してきたが、残り二人は軽く頷くだけだった。

 ダグマーが特別愛想いいだけで、二人の方が標準的反応なのかもしれない、という気もする。一晩たまたま相部屋になった程度で、名乗り合う必要などそれほど感じないだろう。

 村でのイノシシの食べ方に倣って、ノウサギの焼けた表面から順次削ぎ取って皿に盛り、四人でつつけるようにテーブルに運ぶ。

 そうして話を聞いたところ、やはり三人は城壁工事に通っている日雇い人足らしい。

 さしあたって最も知りたかったのが城壁工事のことなので、詳しく尋ねることにする。


 主にダグマーが話してくれたところによると。

 工事勤務は、初日だけ早朝に口入れ屋の前に集まって登録し、現場に連れていかれる。二日目以降は直接現場に出勤する。

 専門職人ではない日雇いたちの主な仕事は、土嚢運びだ。現在石壁建築している地点に大量に必要になるが、足場が悪いので台車などは使えず、人力に頼るしかないのだという。

 建設現場でのもっぱら荷物運びの肉体労働というと、最悪古代エジプトや中国などの奴隷による強制的なものを連想してしまうが、それほど悲惨なものではないらしい。個人の体力に合わせた労働量を、あらかじめ係員と相談の上決めてかかるのだとか。

 これもまあ、考えてみれば当然だ。他国はともかく、このゲルツァー王国では通常奴隷は認められていない。犯罪奴隷と呼ばれる、要するに労働に従事する受刑者が少数いる程度だ。しかもそんな存在、こんな僻地の男爵領までは回ってこない。

 労働目的で他領から流れてくる者も、まず望めない。つまるところ、肉体労働に従事できる者の頭数は、限られているのだ。

 そこに奴隷レベルの雇用環境だとしたら、労働者が定着するわけがない。

 城壁工事は、長丁場だ。労働者に短期間で無理をさせるより、体力温存しながら長期間続けさせることが望ましい、という判断になるのが自然だろう。


「実際、女子どもでも働ける量の仕事も用意されているのさ」

「へええ、そうなんですか」


 具体的には、一日の勤務時間内で運ぶ土嚢の数と日当をセットで決めたものが、何種類か用意されているという。土嚢百個で銀貨三枚、二百個で銀貨六枚、三百個で銀貨十枚、といった調子らしい。

 土嚢はそこそこの重さで、ふつうの成人男性で一度に三個運ぶのがせいぜいだそうだ。それを標準一時で十往復、休憩を挟んで六時あまり続けて、ほぼ体力の限界に至る。ということで、ふつうの労働者には一日二百個コースがお薦め、ということになる。

 体力自慢の者は三百個コース、女子どもや老人は百個コース、ということになるのだろう。

 さらに小さな子どもが、二人ひと組で百個コース、三人ひと組で二百個コースを請け負う、ということもあるそうだ。


「ハックは見たところそう体力があるわけでもなさそうだから、まず百個から始めてみたらいいんでないか?」

「ああ――そうかもしれませんね」


 訊いてみると、ここにいる三人は皆、毎日二百個コースに従事しているということだ。


「そういうふうに決まっているってことは、当然、規定の個数を運べなかった場合には――」

「日当が減らされるに決まっているだろう」


 ノルマに一個でも足りなければ、日当は半額に減らされる。

 ノルマの半分にも達しなければ、日当は支払われない。

 まあよほどのアクシデントでもない限り、この日当ゼロのパターンは起き得ないだろうが。

 いちばん注意しなければならないのは、初めて従事する場合と、体調不良の場合、ということになりそうだ。


「俺も、疲れが溜まっているときは百個でやっている」

「俺もだ」


 赤髪と灰色髪の二人も、ぼそりと口を入れてくれる。肉を摘まみながら、申し訳程度に情報をくれるという感じだ。

 まあそれでも、ほとんどダグマー中心になっている説明に、要所要所で頷きを入れているだけで、少しは信憑性の保証になっているとは言える。

 どうも受けた感じだけだと、こちら二人は前から顔見知り程度、ダグマーとは口を利くのも初めてという印象で、少なくとも三人口裏を合わせて小僧を騙してやろうという意図は感じられない。

 話によると三人ともそれぞれ別の近隣の農村から短期来ている、要するに出稼ぎらしい。収穫期を前に少し畑に手間がかからない時期、現金収入を得るためにやってきている。

 三人とも村に家族を残してきている身分なので無駄遣いなどはできず、こうした木賃宿に宿泊しているということのようだ。


「まあ、もう少し高い宿でも相部屋でないっていうだけで、寝台などはそう違わないからな。慣れてしまえばこの宿もなかなかのもんだ」

「だな」

「うむ」


 そうなんだ、と溜息が出る思いで受け止める。

 それこそこれもかの小説ノベルの類いなら往々にして、どんな安宿でも清潔な個室で一応安眠できるベッドが置かれていることになっているわけだが、こちらの現実はそう甘くないようだ。

 そういう安直な小説ノベルを馬鹿にする学校の年輩の先生は、「こういう作者、子どものときから個室を与えられていた微温湯ぬるまゆ育ちで、雑魚寝の木賃宿なんて存在を知らないんじゃないのか」とわらっていたものだ。「現代日本にも残っている粗悪な環境がこの手の小説ノベルの世界レベルに存在しないなど、到底あり得ない」と。

 まあ現実には、ベッドの実態はどうあれ、こうした安価な宿泊の方法があるというのはかなりありがたいわけだけど。

 それはともかく。

 少し高い宿でも、寝台は変わらない。あの、木の板に粗い布一枚、どんな虫が這っているかも分からない環境、ということか。

 少なくともこの世界、庶民向けにクッションの効いたベッドや綿の入った布団など未だお目にかかっていないし、存在の期待も持てそうにない。

 それなら逆に考えると、この温暖な季節なら、何かに襲われる危険や蚊などの虫の心配がない限り、外で寝てもたいして変わらないということかもしれない。

 宿泊費の節約を考えると、真剣に検討してもいいかも、と思ってしまう。


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