90 踏み込んでみた
一日がかりで、まだ量は不十分ながらイーストを出荷できるまでにこぎつけた。
容器が揃うのを待ちかねた勢いで、ミソの仕込みも始める。こちらは当然出荷まで日数が必要だが、プラッツに残してきた分であの町の需要分はしばらく賄えるはずだ。
転居の翌日には最初のイーストを受けとって、ユルゲン支店長は安堵の反応を見せていた。
「本当に、こうして製造ができるんだねえ」
「ええ。イーストについては、材料を揃えて環境が整いさえすれば」
「よし、このままの勢いで増産をお願いしたい」
「承知しました」
イザーク商会の支店は、街の中央部で商店や商会が集まった地域の、西寄りの位置にある。我々の新しい住居兼作業場はそれよりさらに数百メートル西に進んだ場所にあり、周囲は木工所、石工所がいくつかある他、中流階級の住居になっているらしい。
さらに一キロメートル程度西へ進むと防壁に突き当たり、やや北方向に街の外に出る西門がある。その先には町民が山菜採りや猟をする森が広がり、トーシャが出かけているらしい山地に続くようだ。
先日まで暮らしていたプラッツの北方向が、今度は西方向に変わったという感覚か。つまりは街の中でも森や山に近い地域ということになる。
西の森ではノウサギ猟ができるらしいので、今までの習慣を継続することも可能だ。とはいえ、自分たちの食料としての肉をを得る以上の必要は、もうないとも言える。
最近のプラッツでの猟も、ほとんど肉屋への義理を果たす目的だけになっていたのだ。
プラッツでの生活は二ヶ月半程度になっていたが、その
町に入った初日、あの無愛想な主人がノウサギを買い上げて解体を教えてくれるということがなかったら、あれほど順調に生活を始めることはできなかった。
壁工事に参加していた時期もイーストなどの製造を始めた当時も、ノウサギでいつでも収入が得られるという安心があって、余裕をもって活動することができた。
そんなこともあって、最近の猟は道楽半分、肉屋への恩義に報いる自己満足に近い思いからになっていた。
ここしばらくはかなり当てにされていて、突然その肉の供給が絶えることになってしまったが、そこはもう諦めてもらうしかないだろう。あちらで別な猟師が出てくることを祈っておこう。
そういうことで、イーストの作業をしながら何の気なしに「もうノウサギ狩りの必要もないかな」とニールに言うと、いつも無表情な相手はやや当惑、不満げともとれる顔になっていた。
「薬草、ここでは売れない?」
「いや、売れるとは思うが。薬草採り、まだしたいのか」
「うん……あれ、面白い」
「そうか」
考えてみるとこの子どもは、薬草の自家栽培を試みるほどに興味を示していたのだった。
結局再三の転居で、それもはっきり成果を見ないまま中断していたのだが。
初めて薬草を採取、買い取りしてもらったわずかな銅貨を握り締めていた、嬉しそうな様子が思い出される。
「まあそれも、落ち着いたら考えてみるか。自分たちの分の肉を狩りに行くというのも考えていいかもしれない。いずれにしてもこちらの作業を順調に落ち着けて、山や森の安全を確かめてから、ということにしよう」
「うん」
二日目にはかなりイーストの製産も安定してきて、イザーク商会に届けに行きながら、かなり寛いでユルゲン支店長と話をした。
以前から商会長と話していたことだが、イースト生産の拠点をマックロートに移すことができたらいろいろ活動形態を変えることを検討していた。
ある程度は支店長にも伝わっているらしく、まだ手探りながらそんな方針の確認だ。
「近日中には会長がこちらに出てくることになっているから、その折に改めて相談することにしよう」
「それはありがたいですね」
以前から、マックロートの各所に非公式の打診を受けていたらしい。
王都に近づけた地でイーストの増産を始めることができたら、別の販売網を広げる検討もできる。いくつかの商会から、そういう方向で名乗りを上げてきているという。
プラッツの二商会への卸しを止めることになったのだから、こうした新しい方面の開拓は急務になっている。
またそうした評判が伝わって、こちら侯爵領主邸からも呼び出しが入っているということだ。
「なるほど、そういうことで会長さんも急いで出向いてくるわけですか」
「ああ、この機を逃すわけにはいかない、といった状況に来ているからね」
この辺の話が具体化すれば、ますますイーストの製産を広げなければならない。
そうなれば、製産の大部分をイザーク商会側に譲渡することも念頭に、会長と相談していた。
製産自体は商会に任せて、こちらは利益の一定割合を受けとるという契約になるだろう。
プラッツでそんな検討をしていた時点ではまだまだ先のことと思っていたが、この事態に到って一気にそちらへ流れが移っていくことになりそうだ。
「こちらでもすでに、イースト工場を稼働する土地を押さえているところだ。よろしく頼むよ」
「はあ。いい相談がまとまればいいと思います」
詳しくは会長と話した上でのことになるが、おそらくもめることなく方針は決まると思われる。
ねぐらに戻り、他の子たちが寝静まった後、ブルーノ、サスキアと話し合った。
イーストの製産を別に移すことになったら、我々の身柄が狙われる危険は、ほぼなくなるだろう。また、子どもたちの就業形態にも別の選択肢が出てくる。
最近は全員でイーストとミソの生産に従事していたが、別にこれらをみんなで一生の仕事にする覚悟を決めていたわけではない。
一般的な基準からすると、小さな三人を除けばいろいろな職種、商会や工房などに見習いとして入っていて不思議はない年代なのだ。
マックロートは、人口面でもプラッツの五倍近い大きな街だ。向こうとは比べものにならないほど、いろいろ職業選択の余地がある。
実際この新居の近くには、そこそこ職人数を抱えた木工所や石工所があるようだ。
以前から聞いていたところもともとブルーノとルーベンは、木工職人の見習いに入れたらという希望を持っていたらしい。
孤児のため保証人がいないのでこれまで実現していなかったわけだが、この日ユルゲンが教えてくれた。見習いの希望があるなら、イザーク商会で紹介だけならできる。一般の保証人制度のようにもしもの場合の責任を丸ごと背負うことはできないが、ある程度の保証金を先払いするなら受け入れる工房もあるのではないか。
その程度の金額ならば、最近のイーストの稼ぎによる個人の貯蓄で融通することができそうだ。
「なるほど……ありがたい、かもしれないぜ」
「ブルーノとルーベンは、木工志望だろう。女の子たちは、裁縫関係かな。そういう口も探せばありそうだということだ」
「ふうん」
「ナジャはどちらかというと料理か。少し落ち着いたら、ミソを取り入れる料理屋の当てがないか探そうと思っている。その流れで、もしかするといいところが見つかるかもしれない」
「何だか、至れり尽くせりってやつだな。少し気を落ち着けて、しっかり相談しておきたいところだ」
「まあ少しは貯えができたところだから、急がなくてもいいだろうな。しかし一方で、見習い修行を始めるなら早い方がいいんだろう?」
「まあ、そういうことになるな。俺なんかはもう、修行を始めるには少し遅いくらいだ。急いで遅れを取り戻したいって気もある」
「そういうところで、しっかり考えてくれ。あと、ニールはあまり外を出歩かない方がいいんだろう?」
話を振ると、サスキアは「うむ」とやや難しい顔で頷く。
この地への移動途中から少し見られていたのだが、この女剣士にはどうも他の子どもたちとは違う懸念があるのではないかと思われる。
「俺は当分、ニールの助手としての雇用は続けて、ここでミソの品質向上やその他の商品開発を試していきたいと思っている。ニールに小さな子たちの世話を任せられるから、他のみんなはある程度安心して見習い修行など考えていいと思う」
「そうか、それは助かるぜ」
「あと、やはり確認しておきたいんだが」
見ると、サスキアはやはり難しい顔で口を一文字に結んでいる。
ブルーノと軽く頷き合って、話しかけを続けた。
「少しだけ、踏み込んだことを訊いてもいいか」
「……うむ」
「サスキアとニールは本当なら、このマックロートへの移動、望ましくはなかったんじゃないのか」
「う……む」
最初にプラッツへ移動した際、マックロートを通過して北上してきたという話なのだ。この大きめの街より、さらに自分たちが目立たない辺境を目指す目的があったのだと思われる。
この侯爵領都は、そこそこ他領の人間やどうかすると外国の者も出入りすることがあるらしい。南方は他の爵領を通って王都に続く。西側は山中の細い道を辿って、隣国へ入ることもできるという。
その点、ある程度他からの探索の目が入ってくるかもしれない土地なのだ。
少し黙考し、サスキアはふうと息をついた。
「今回の状況では、仕方なかったからな。目立ちなくない事情は確かにあるのだが、プラッツよりこちらの方が生計を立てやすいのはまちがいないようだ」
「だな」
「正直、ニールはそうしてここで仕事ができるなら、さほど心配はないと思う。目立たないように気をつけなければならないのは、わたしの方だな」
「ああ――女だてらに剣を持っているのは、確かに目立つよな」
「うむ」
ブルーノの遠慮のない指摘に、口を尖らせて頷いている。
その様子を見て、頷き返した。
「それなら当面、サスキアも外出などを控えるべきだろう。確認しておくが、サスキアの目指すところはとにかく、ニールを護ること、ということでいいんだな?」
「うむ」
「それならサスキアも、俺の作業場の職員として雇われろ。職務はとりあえず、作業場での力仕事と、ニールと小さい子たちの護衛だ」
「う……いいのか、そんなことで」
「俺の知る限り、いちばん信頼できる護衛だからな」
「……分かった」
やや渋々の仕草で、頷いている。
この女剣士にとって、人に借りのようなものを作るのはなかなか耐えがたい思いなのだろう。しかし今の状況で、この選択が最善だというのは否定できないようだ。
さらに歯を食いしばるような表情で考えて、「悪いな」と低い声が漏れた。
こちら、男二人の顔を辛そうに見回して。
「これ以上、詳しい話はできない。できないと言うより、よけいな事情を知ったらお前たちのためにならない」
「そうか、分かったぜ」
「ああ、それだけでもよく話してくれた」
この程度でも意向を確認できなければ、今後の方針を定められないのだ。
とにかくも当分、サスキアとニールはここで内勤。小さい子たちの面倒を見る。
他の面子は、将来に向けて見習い修行の先を探す。
不都合がない限り、集団生活は続ける。とりあえずはこれまでも考えてきた、越冬の支度を続けていくことになる。
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