65 向かってみた

 視線の先は、北の方向だ。

 つられて見やった、防壁の遙か先、山の上に異状が見られた。

 まだ青い空へ、黒いものが大きく立ち昇っている。

 煙――噴煙、だろう。


「山の噴火ですか」

「おう、そのようだ」


 声をかけると、ダミ声が返ってきた。

 その顔が引きつって、北の空から目を離せないでいる。


「しかしあんなすげえ煙、初めて見るぞ」

「そうなんですか」


 この初老の主人が初めてだというのだから、相当異常な事態なのかもしれない。

 どうするかとブルーノと顔を見合わせていると、エルヴィンが声をかけてきた。


「お前さんたちは、子どもを落ち着かせておけ。たいへんな事態になるようなら、衛兵から触れが回ってくるはずだ」

「分かりました」


 大きな地震の続きはないようだが、何となく地面はかすかに揺れ続けているように感じられてしまう。

 落ち着かないながらもすぐにどうということはないだろうと判断して、夕食を済ませることにした。

 食事の片づけをしていると、また外から賑やかな人声が聞こえてきた。

 子どもたちには大人しくしているように告げ、ブルーノと二人で庭に出てみる。

「ありゃ何だ?」という怯えた声が行き交っている。

 やはりエルヴィンと、他数名の住民が道に集まって騒いでいるらしい。

 見ている方向は、また北の山の上だ。

 暮れかかる空に、まだ黒煙が続いている。

 それ自体は先刻から変わらないようだが。


「何か、変わったことがあるんですか?」

「見てみろ、あの煙の下」


 問いかけると、一人の男が指さし教えてくれた。

 もう暗い、山の中腹付近に目を凝らす。

 と、かすかに。

 赤く輝くものが瞬いているのだ。

 周囲が暮れかかってきたので、見えるようになったのかもしれない。


「何だ、ありゃ」

「山火事か?」

「いや何か、違うんでねえか?」


 今のところ、炎が立ち昇るという様相には見えない。

 しかし確かに赤い輝きが瞬き、蠢き続けているようだ。

 いやな予感が、頭に浮かぶ。


「もしかして、溶岩じゃないですか」

「溶岩? 何だそりゃ」

「噴火した山から、高熱で溶けた岩が流れてくるものですが……」


 この地では、見られたことがないのだろうか。

 思っていると、かなり年をとった男が手を打った。


「ああ、火の川か。大昔の言い伝えで、聞いたことがあるぞ」

「そうなのか?」

「ここじゃないが、噴火の後の火の川に呑まれて、町一つが消えてしまったと」

「何だと? たいへんじゃないか!」

「まだ遠いから、慌てるもんじゃないと思うが……」


 当然ながら、こうして見ているだけで結論を出せるものではない。

 わいわいがやがやと、あることないことの言い交わしが続くばかりだ。

 エルヴィンの言う、いざというときは衛兵から触れが回る、ということを信じて、家に戻った。

「もしかすると避難をすることになるかもしれないから、荷物をまとめて備えておこう」と全員に指示をする。

 一時間余りも過ぎると、すっかり外は暗くなった。

 しかしこの日は小さな子どもも寝つくことができず、みんなで身を寄せ合って外を窺うことになった。

 そのうち、遠くから声が聞こえてきた。「集まれ」と言っているようだ。

 また、ブルーノとともに外に出る。

 見ると、衛兵一人が近所の者を集めてここの庭に入ってきていた。

 この付近では最も何もなくて広い空き地なので、ここに集めることにしたらしい。


「落ち着いて聞いてくれ。まだ今すぐ危険ということではないが、余裕をもって行動してもらいたい」


 と張り上げた、衛兵の説明によると。

 かなりの非常事態という領主の判断がされて、地域ごとに衛兵が人を集めて話しているとのこと。

 あの山に光るものは、偵察に行った領兵によって、火の川であることが確認された。

 ゆっくりした速度だが、確実に山を下っている。

 付近の地形に詳しい者の判断では、この後火の川が進む先はおよそ三通りが考えられる。

 ずっと東の方へ向かうか、プラッツの町のすぐ東側を街道を横切って通り過ぎるか、町を直撃するか。

 町のすぐ北側に岩山があるので、それより西へ進む可能性はない。

 三つの進路、どの可能性が高いかは不明。つまりおよそ三つに一つの可能性で、この町が呑み込まれると考えるべきだろう。

 その場合、今の火の川の移動速度のままなら、この町に到達するのは明朝以降と考えられる。

 よって、一晩の余裕をもって、南西へ向けて全町民の避難を促す。

 時間に余裕はあるので、渋滞などが起きないように順に指示を出すから、それに従うこと。

 大きな家具などは運べないので諦めて、身の周りのものをまとめて準備しておくこと。


「以上だ。すぐ避難準備を始めろ」


 衛兵の宣言で、人々は急いで家に戻っていく。

 思った以上に、領の措置、住民の行動、ともに冷静に見える。

 何より、一晩の余裕があるということで、パニックに陥ることはないようだ。

 さらには町への直撃は三分の一の確率で、また戻れる可能性もそこそこ考えられるということが、気休めになるのかもしれない。

 こちらの子どもたちにも、引き続き指示をした。

 先日の転居のときと同様、持てるものだけを持って出る。寝具などを荷車に載せて、あとは手に持てるものだけだ。

 製産物関係ではやはり、イーストと麹の元のものだけを運び出すことにする。

 そんな動きをしていると、イザーク商会の馴染みの小僧が訪ねてきた。


「旦那様がお尋ねです。イーストとミソはどうするつもりなのか」

「前回と同様、元になるものだけを運び出すつもりです」

「はい、そう伝えます。それから伝言ですが、もしこの町に戻れなくなったら、イザーク商会はマックロートにある支店に移ることになる。移動後そちらに連絡を入れてくれ、ということです」

「了解しました」


 この辺りもそこそこ、冷静に判断して打ち合わせができる。

 小僧を帰して子どもたちの準備を確認しながら、別のことが気になってきた。

 外に出ると、衛兵がまだすぐ前の道に立っている。この地域の状況を見守り、指示する役目なのだろう。

 その傍に寄っていって、尋ねかけた。


「済みません、東の村の方へは、誰かこの事態を知らせに行っているのでしょうか」

「ん?」わずかに考えて、衛兵は答えた。「いや、行っているとは聞いていないな」

「向こうの村から、あの火の川は見えますかね」

「うーん――いや、ここからはあの二つの山の隙間に見えているが、東の方だとあの右の山の陰になって見えないかもしれんな」


 改めて、整理すると。

 さっき出ていた、火の川の三通りの進路。

 いちばん東向きに進んだとしても、そちらの村は呑み込まれる恐れがある。

 町の東を通り過ぎるか町を直撃するかだとしたら、東の村は陸の孤島として取り残されることになる。

 つまりどのパターンにしても、かなり命に危険が及ぶことになりそうだ。

 村人たちが自分で気づいて避難を始める可能性は低い。

 しかし、今から伝令が走ったとしても、往復して夜明けまでにこの町まで戻るのは、馬を使っても難しい。

 つまり事実上、東の村の人々にもう避難は不可能なのだ。

 その不可能なことに、自分の命まで危うくして、伝令に走る者はいないだろう。

 ということになる。

 愕然、として立ちすくむ。

 グルック村の人々の命が、風前の灯なのだ。

 加えてあちら方面には、まだトーシャがいる可能性が高い。


――何か、あちらを避難させる方法はないか?


 伝書鳩や狼煙や、そんな遠隔通信手段は存在しない。

 魔法のような手段があるわけはない。

 こればかりは、『鑑定』と『収納』だけ、という限界だ。高速移動のようなことだけは、どう知恵を絞っても実現しないのだ。

 連絡をつけて避難を間に合わせるのは、まず無理だ。

 残るは、自主的に気がついて避難を始めてくれることか。

 もし陸の孤島に閉じ込められても、生き長らえてもらえるか。

 そこに期待を込めて、祈るだけだろうか。

 重い足で、屋内に戻る。


「ブルーノ、サスキア」

「何だ」

「悪いが、みんなを連れて先に避難していてくれ。俺は、遅れて後から行く」

「どういうことだ?」


 ブルーノが目を丸くする。

 サスキアも眉をひそめて不審げな表情だ。


「前に言ったと思うが、俺には東の村に恩人がいる」

「ああ、聞いたな」

「そちらの避難が間に合うか、見にいきたい」

「なるほど。しかし、東の方は危ないんじゃないのか」

「危ないから確認に行くんだがな。しかし、本当に危険なようなら引き返してくるさ」

「分かった。それなら、気をつけてな」


 ブルーノは納得したようだが。

 長身の少女は、じろりと睨み返してきた。


「本当にハック、引き返す機を誤るんじゃないぞ」

「ああ」

「お前は何か、とんでもないことをしそうで安心できない」

「そこは、信じてくれ」

「わたしは構わないが、まだお前がいないと、ニールが困るからな」

「分かったよ」


 いつも変わらないサスキアの姿勢に、苦笑してしまう。

 とにかく急ぐ、と断って、いつもの袋を背負って家を出た。

 町中は、いつもの夜と違って何処もざわざわがたがたしている。それでも衛兵の指示が徹底して、先んじて外に飛び出し行動を始める者はいないようだ。

 遠目に見ると、北の門には衛兵が詰めているらしい。引き留められても面倒なので、近くの壁を越えることにする。

 防壁の外は、月と星だけが頼りの闇が広がっていた。

 それでも目が慣れると、毎日通っている森の佇まいはまちがいなく見てとれる。

 横に数百メートル程度広がった木立の左手奥に、今は赤というかオレンジというか、不気味な輝きが覗く。距離感が掴めないが、偵察からの報告によるとまだ十キロメートル近くは先のはずだ。

 そちらへ向けて、森を迂回するように歩き出した。


――どれくらい、歩くことになるかな。


 草地を歩き、川を渡り、窪地を抜けて、登り坂に入る。松明で足元を照らしてほとんど道なき道の行軍の末、一時間足らずではっきりした登山になった。

 ここまでの途中も山の中も、ほとんど生き物の気配は感じられない。時おり、遠く忙しない何か獣の移動を知らせる光を目にした程度だ。

 おそらくのところ、あの火の川の接近を知って動物たちも避難を始めているのだろう。

 オオカミなどに襲われる危険が少なそうなのはありがたいが、警戒は怠らないようにする。

 さらに一時間程度登山を続けて、小高い中腹に着いた。まだ横手に高みは続くが、進んでいた方向に眺望が開ける。

 低めの山に挟まれた狭間、しばらく見えなくなっていた溶岩流の輝きが、一気に近づいて赤々と目に入ってきた。先入観のせいかも知れないが、表面にふつふつとした滾りが見えるようにも感じられる。

 町中からとは比べものにならないほど広がりを見てとれるが、それでもまだ数キロは離れているのだろう。

 夜遅くなって本来なら周囲は闇に包まれているところだろうが、溶岩の放つ光でそれなりに辺りの地形も見えていた。

 すぐ目の下は、そこそこ深い谷の形態になっている。火の川がこちらに向かってきたとすると、一度この谷に溜まって横に流れるか溢れて直進するか、といったことになるのかもしれない。

 さて、と近くの岩に腰を下ろして考える。


――この後、どうすべきか。


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