137 遠のいてみた
解体したノウサギ肉を荷車まで運ぶため、これも久しぶりにニールと分担して袋で背負う。
こういう場合護衛のサスキアにはできるだけ荷物を任せず、動きやすくしておくのがセオリーらしい。
「大丈夫、背負えるのか、ネール王女?」
「あたりきだ」
サスキアが軽い口調で声をかけ。二羽分の肉を担いだニールもやや戯けて返している。
この三人だけだと隠し事をしなくていいという安心からか、特にサスキアの肩の力が抜けている印象だ。
「ネール王女という呼び方をしていたのか」
「ああ。コルネーリア王女殿下というのが正式な呼び方ということになるが、ふだんは愛称のような感覚だな」
ニールという偽名はもちろん、長年親しんでいた「ネール王女」という呼称から捻った上で男子らしく聞こえるようにしたものだ。
もしサスキアがうっかり元の呼称を口にしかけたとしても、言いまちがい聞きまちがいで済ませる余地が残る、という理由だ。
なおサスキアも初対面当時は、当然「コルネーリア王女殿下」と呼んで接していた。しかし少し慣れ親しんできた頃、王女の方から「言われ慣れてなくて違和感がある」と言ってきたという。
そもそも生まれてからずっと、「殿下」という敬称で呼ばれたことがなかったらしい。侍女からも乳母からも、ただ「王女」という呼ばれ方をしていた、と。
幼いサスキアは「そんなものか」と思っただけだったが、後日家族などに確かめて、常識から外れていると知らされた。
乳幼児の頃ならいざ知らず、少し物心がついてきた後は王族として、殿下呼びされるのに慣れなければならない。王宮での養育上、常識中の常識だ。
乳母や侍女にその常識が伝わっていなかったのか。何も指示がないので面倒を嫌い、簡略な呼び方で済ましていたのか。はたまた何処からか、特にそうせよという指示があったのか。
今となっては、分からない。
何はともあれ「殿下」づけは距離をとられすぎる感覚で、当の王女が寂しげな受けとめをするようなので、サスキアは譲歩することにした。
「公式な場面では公式な呼び方をしますので」という断りを入れた上で砕けることにしたが、以後七年間そのような公式な機会は一度も訪れなかった。
「呼び名一つをとっても、いろいろややこしいものが見えてくるわけか」
「そういうことだ」
「もしハックが改まった口を聞いたら、絶交するから」
「承知しました、王女殿下」
「だからあ――」
「冗談だ」
軽口を聞いたら、本人にじろりと睨み上げられた。
それでも謝罪するとすぐににっこり顔を緩め、足どりを速めている。
「ね、前より力がついたと思わない?」
「そうだな。初めて狩りの助手をしたときに比べて、足どりもしっかりしている」
「だよね」
いつもにも増して機嫌よさそうに、さらに足を速めてみせる。
こちらも負けじと、それに歩調を合わせる。
「足元に気をつけるのだぞ、ニール」
「平気だ」
後ろからのサスキアの呼びかけにも、振り返らず応え。
がさがさと、まだ低い茂みをかき分け、踏みつけ。
木立を抜け、やや広い草地に出ようとするところで。
「な――」
「どうした?」
「サスキア?」
後方のサスキアから。妙な声が漏れた。
急ぎ振り返ると、護衛姿の少女が前のめりによろけ、膝をついたところだった。
「何者だ!」
そのままの姿勢で抜剣し、周囲を見回す。
見ると、サスキアの膝下に革紐のようなものが巻きついていた。
――何だ?
そちらの救助より、ニールの安全確保が優先、と目を転じたとき。
肩から背中、いきなり火が走った、感覚を覚えた。
「ぐあ――」
「ハック!」
振り向くと、簡易防具を着け剣を振り上げる男が立っていた。
その刃から、赤い滴りが伝い落ちている。
「ハック、やだ――」
すぐに続けて、藪に潜んでいたらしい数名が駆け寄ってきた。
二名が両側からニールの腕を掴む。
背負い袋をはぎとり、二人がかりで抱え上げようとしている。
「待て、ニール!」
駆け寄ろうとして、身体の力が抜けるのが分かった。
左肩から赤いものが噴き出しているのが、目の端に映る。
「貴様ら、ニールを放せ!」
サスキアの怒鳴り声が、何処か遠のいていく。
さらに続いて、ニールの周囲に人が集まっていた。
四人か、五人か。目の焦点が合わず、判別できない。
急速に意識が薄らぎ、全身から力が抜け。せめて『収納』で何か反撃しようとしても、集中が霧散してしまう。
「連れは、他にいなそうだな」
「は。確認したのはこの二人だけとなります」
「では、撤収だ。馬のもとへ、急げ」
「は!」
声が遠のき。
知らず、がくりと膝をついていた。
どんどん、力が抜けていく。
――今の言葉遣い、貴族周辺の者か。
現在最優先とも思えない、考察が頭をよぎり。
集団の足音が遠ざかる。
「ハック、ハック――」と甲高い声が尾を引く。
手をつき、全身が傾き。頬が地面に触れた。
「ハック、ハック、しっかりしろ!」
逆方向から、少女の声が近づいてきた。
そのまま、目の前が暗くなっていた。
目を開くと。
背中に、激痛が走った。
「うぐ――」
「お、動いてはいかん。安静にしろ」
俯せの姿勢から、顔を横向ける。
脇から寄ってきた人物が、肩を押さえたところだ。
「動くなよ。ようやく出血が止まったところだ。動くとまた、傷が開く」
「は……」
白い衣服の中年の男。見覚えがない――いや、ある?
少し悩んでいると、やや離れたところに声が上がった。
「ブルーノ、ブルーノ、ハック目を覚ました!」
「本当か?」
声を上げたのは、ルーベンか。
ドタドタと、荒い足音が近づいてきた。
自分は部屋の中、寝台に寝かされているらしい。
戸口に、ブルーノの顔が覗いた。
「ハック、大丈夫か?」
「……ああ」
「こら、動いてはいかん」
白衣の男に押さえられながら、ぎりぎり横向けた顔を上げる。
寄ってきたブルーノが、屈み込んできた。
「どうだ、気分は?」
「……俺は、どうしたんだ?」
「賊に背中を斬られた、と一昨日サスキアが荷車で運び込んできたんだ」
「ここは、家か」
「おお。とりあえず一階の部屋に寝台を運んで寝せて、医者を呼んだ」
「一昨日――」
「そうだ。お前、二日間意識がなかったんだ」
「そうか……」
「これだけ出血して、意識を取り戻すとはな。あの友人と一緒で、たいした体力持ちと見える」
白衣の医師らしい男がつけ加えた。
その顔を見直して、思い出した。プラッツでトーシャを治療してもらった、医者だ。アドルフと言ったか。
「先生、でしたか」
「ああ。とにかくまだ、起き上がる体力は戻らない。傷の具合も、しばらく観察が必要だ。何にせよ今は安静にしていなさい」
「はい――ブルーノ、サスキアは?」
「ニールが攫われたと言ったな。お前をここに連れてきてすぐ、賊の跡を追った。馬を買って、隣国へ急ぐそうだ」
「……そうか」
敵も馬を使っているはずだ。途中で追いつくことはできるだろうか。
怪我人を運び、馬を購入し、の手間をかける分、あちらとの距離は開いたことになるだろう。
サスキアとすれば目の前に馬がいたなら、怪我人など打ち捨ててすぐ追跡開始したかったかもしれない。
隣国クラインシュミット王国の王都まで、馬を走らせ山道は降りて徒歩になり、急いで七日はかかるという。
二日経過して、まだどちらもその途中になるはずだ。
「ものを食えそうなら、何か腹に入れた方がいい。かなり血を失っているから、栄養補給が必要だ」
「ああ、今レナーテが麦粥を作っているから、少し待っていろ」
「分かりました。済まない」
医師とブルーノの言葉に、頷いて返す。
訊くとこの二日間、ビルギットとレナーテが順に家に残って様子を見ていてくれたのだそうだ。
またアドルフは、数日前からたまたまプラッツを出てきてマックロートに滞在していたという。こちらの知り合いの医者と土痙攣病の特効薬について話し、共同で研究開発を進める相談が目的らしい。
その滞在していた医師宅に、怪我人への往診を請いにブルーノが訪れた。これもたまたま興味半分に同行してきたところで、患者が顔見知りだったので驚いた。
縁がある相手ということで、治療を引き受けることにした。
「これも偶然と言うか幸運と言うか、すぐ土痙攣病の治療ができたので、最悪にならずに済んだよ。君が見つけてくれた薬が、回り回って君の命を救ったことになる」
「それは――悪運に見放されていなかったということですかね」
「そうかもしれないねえ」
情けは人の為ならず、という言葉が浮かんだ。意味的に合っているかどうか、確信は持てないが。まあ、どうでもいい。
枕元に置いてくれていた血染めの背負い袋を探って、医師に治療代の支払いをしておく。この先どうなるか分からないが、回復までの必要経費を多めに見積もってということにした。
一応傷は塞がっているということで、寝床で俯せのまま少し身を起こすことはできる。人手を借りてなら、立って歩くこともできた。
ただやはり貧血とまだ熱が下がらないためだろう、自力で歩こうとするとすぐに
「とにかく、もう少し血が戻るまでは無理をしないことだ」
「分かりました」
俯せ姿勢のまま、ほとんど粒が見えないまで煮込んだ麦粥を啜ることはできた。
その様子を確かめて、医師は帰っていった。
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