85 窺ってみた
しばらくして、かなり遠くかすかながら、教会の鐘の音が聞こえてきた。十八時だ。
一応時刻が分かるのは、助かる。
そろそろ外は暗くなってきたところだろう。
――さて、どうするか。
いろいろ、事の起こし方はある。
看守の動きを奪うことも、牢屋の鍵を開けることも、できるだろう。
つまりおそらく、ここから脱走するだけなら難しくはない。
しかし問題はさっきも考えた、逃走後に「お尋ね者」として手配される恐れだ。国内に安住の地がなくなることは、避けたい。
まあ、残る方法がなければ、それもやむなしなのだが。
他に考えなければならないのは、仲間たちのことだ。
さっきの「白いノウサギの毛」の撃ち上げで、ほぼまちがいなく「目立つところに白いものを合図に残す」という意味だと伝わったはずだ。
打ち合わせ通りに、ブルーノとサスキアは即刻町を出る決断をしてくれるだろう。
さっきの領主と商会長たちの会話から、作業場に撤収の手が入るのは明朝の裁きの後、ということでまちがいないだろう。
明日には堂々と行動を起こせるのだ。あの目立つ住宅地の中で、今日のうちにフライングを起こす理由はない。
こちらから連絡がついているとは想像もしていないだろうから、おそらく見張りもつけていないのではないか。
とすれば、まず問題なく今夜のうちに仲間たちの避難は完了するはずだ。
ここは、何とかうまくいっていることを祈ろう。
――あとは、こちらの手順だけだ。
何かやり損なっただけでも将来に
仲間たちの避難の余裕だけを考えると、明日の朝まで待った方がいいかもしれない。
しかしやはり確実に成功することを優先すれば、夜の闇に紛れるべきだ。
いろいろ考慮すると、領主邸の住人たちが半分以上程度就寝、ある程度は起きている、という頃合いがいいのではないかと思う。
おそらく真夜中でも不寝番はいるのだろうから、全員が就寝という状況は期待するだけ無駄だ。
――それにしても、なあ。
さっきの領主と商会長たちの会談。内容以前に、このタイミングであのような形で行われていたことに、溜息をつきたくなる思いだ。
あの三者で、イーストを領のものとして取り込もうと画策していた。
おそらく、昨日今日の話ではないだろう。
あの、ヘラー商会がこちらの住居と物品を奪いに来た時点で、領主も協力する立場にいたとして何ら不思議はない気がする。
領主は「土地の売買は担当者が知らぬうちに手続きを終わらせていた」と言い訳していたが、実際はトップが絡んでいたという方が不自然は少ない。
その後の処理についてかの商会にあまり厳しいものにしようとしなかった点からも、それは窺える。
あの領主あたかも、フィクションによくある設定だと、見た目は豪放だが根は優しく下々まで面倒見がいい、というタイプのようではあるが。実際の現象だけでいえば、工事現場や衛兵詰め所に気安く顔を出すという人気取りパフォーマンスに過ぎないかもしれない程度のことしか目に見えていない。
それより露骨に目につくのは、いろいろと経費削減、税収増に努めなければならないという、どうかすると焦りに近いような姿だろう。
これを言うとこちらが根性さもしく受けとられかねないが、事実、岩塩の発見や魔物退治についての礼金はその労に釣り合うとは思えず、イノシシ一頭の売却分よりはるかに少額だったわけだし。
そんな諸々の印象から用心だけはしていたのだが、今日になって強引極まりない方策をとられてしまったわけだ。
娘や側近たちや近衛兵までかなりのところ巻き込んで、一町民の小僧が何重にも逃れられなくなるような策を用意して、ということらしい。
さらには、二商会の会長もかなり仲間に引き込んでいる。そうでなければ、さっきのようなちょうど頃合いを見て結果を聞きになど来られるはずがない。
――妙なところだけ手が込んでいて、脱力したくなるほどだ。
いろいろ考えを巡らせていて、気がつくと背後の方から何やらくちゃくちゃと音が聞こえていた。
窺うと、看守が干し肉のようなものを囓っているらしい。
十九時の鐘が鳴り、普通の夕食の頃合いは過ぎている。
どうも囚人に食事を出す気はないようだ。明日の裁きやその後のことを考えて、心身を弱らせておこうという目論見か。あるいはまったく何も考えていないのか。
――まあ、いいや。
看守に背を向けていることを幸い、こっそり食事をすることにする。
水も固形物も、直接口の中や手の中に必要量を取り出せるのだ。
何となくの気分で、ヤニス肉店特製の燻製肉を手に取り出して囓ることにした。
以前門番の衛兵にお裾分けしたところ、「いつも食っている干し肉とは雲泥の差だ」と喜ばれたものだった。
つまりはこれで、背後の看守にささやかな優越感を持っておこうというさもしい意図だ。
そんないろいろをしているうち、二十時が過ぎた。
そろそろ、少しずつ準備を始めるか。
思い、横向きに腰かけ直して、看守の座り姿を目の端に捉える。
その距離三メートル弱。『収納』で何でもできる間合いだ。
念じて。彼の周囲の空気から心持ち酸素を減らし、二酸化炭素を多くしていく。
これを、しばらく続ける。
以前何かで読んだ記憶があるだけのうろ覚えだが、こうすると居眠りしやすい条件が整うということだ。
まあもし外れていても、酸素を薄くしただけで体調を悪くすることくらいは実現できるだろう。
それを続けて半時程度。目論見通り、看守はこっくりを始めた。
首が前に落ちかけてははっと気がつき、辺りを見回す。それを何度かくり返し、ついには立ち上がって通路を往復歩き出した。
その運動の間にも頭周りの空気に細工をし、席に戻ったところでさらに酸素と二酸化炭素の入れ替えを多くする。
間もなく、看守の頭はがっくりと前に倒れた。
そのまま、しばらく待って。遠い鐘の音で二十一時を過ぎても、看守は動かない。
――そろそろ、もういいか。
当初は、南京錠を消して戸口から外に出ることを考えていたが。
それだと戸の開閉だけで、目を覚まさせてしまうかもしれない。
ならば、いっそ。
ということで、木の格子すべてを『収納』で消した。
三つの牢屋の分すべてが繋がっているので、いちどきに消えるのはなかなかに壮観だ。
しかし、まったく音はしない。
ゆっくり歩み出て。格子を元に戻しておく。
看守が目を覚ましても、すぐには異変に気がつかないのではないか。
足音は殺して、外に向かう。
格子前通路から階段に差しかかるところで、背後に大きな岩を設置しておいた。厚さ五十センチ、左右の壁や天井との隙間十センチ程度、というサイズで。
まあこれで、看守が目覚めて追ってきても、これに阻まれて進めない。おそらく音声で外と連絡をとる設備はないだろう。
一人の力では押したり倒したりできない。外から数人が駆けつけてきたら、何とかなるか。動かすのが無理でも、隙間から食糧くらいは差し入れられるので、看守の生命が危ぶまれる事態にはならないだろう。
何故こんな大きな岩が出現したか、と大騒ぎになりかねないわけだが。これからとる行動が予定通りにいけば、これくらい些細な異変ということになるはずだ。
階段を昇っても、付近に見張りの気配はなかった。
昇りきったところの扉は閉じられ、押してみても動かない。どうも外から施錠されているらしい。
しばらく外の気配を探り、扉の隙間から覗いて周囲に人がいないことを確かめ。裏側の金具一切を『収納』し、木の扉を開いた。
外界は、すっかり闇に包まれていた。
やはり近くに人はいない。しかし離れたところに火は点り、小さな影は見えるので、敷地の四隅程度には見張りがいるように思われる。
金具を元に戻してそっと歩み出し、とりあえず近くの物陰に身を隠す。
しばらく辺りを窺っているうち、潜めた話し声が近づいてきた。
身を縮めていると、兵士二人が並んで歩いてくる。
「――ということだ。さらに警護に気を引き締めろってさ」
「商人二人が泊まるからって、大げさだよな」
「命令だから、仕方ねえ。お前は西の奴に伝えてくれ。俺は東に行く」
「分かった」
通り過ぎた館の北側裏手で、分かれていく。
囚人がいるせいというわけでなく、商人が泊まるので警護を強化、ということらしい。
あの商会長二人がここに泊まっているのか。
自宅も遠いわけではないはずだが、よほど明朝の裁きが待ち遠しいのか、まだ打ち合わせ事項があるのか。
――もしかして、好都合かな。
思いながら、見張りの兵士たちが小さくなるまで息を潜めていた。
人の気配がなくなったところで、建物の壁沿いに移動を始める。
南側の正門前は、当然複数の不寝番が立っているようだ。
少し離れた東西の角にも人が立ち、主に北側に目を光らせているらしい。
昼間見たところでは、正門脇から東側と西側はずっと高さ一・五メートルほどの木の柵で囲まれている。建物から訓練場を抜けて北へ二百メートルほどで、町の防御壁に突き当たる。
その柵と壁が交わる二箇所付近に篝火が焚かれ、少なくとも一名ずつ見張りが立っているらしいのが、遠目に見える。さっきの伝令が加わって、二名になったというところか。
西側の柵の途中の内側に小さな林があって、そこならわずかに身を隠せるかもしれないが、それ以外は四隅から見張りの目が行き届いて逃亡者はすぐに見咎められそうだ。
特に柵と壁を越える者には両端から目を光らせていて、すぐ捕縛の手が伸びるようになっていると思われる。
一方この闇の中、南側を除けば建物の壁に密着している限り見つかる可能性は低いだろう。
とはいえ、安穏ともしていられない。
――まずは、状況確認だ。
少しずつ移動しながら、館の中の様子を窺う。
例によって木板の窓で判別はしにくいが、隙間から光が漏れる部屋はわずかに数えるほどだ。
朝晩が早い世界だから、ほとんど就寝しているのだろう。
これまで見た限りでは、一階は執務室などばかりで住人の寝室は皆二階と三階にあるようだ。その一階に灯りが見えないところからすると、起きて執務や作業をしている者はいないと思っていいのではないか。
お嬢様や侍女たち、朝の早い料理人たちなどは確実に寝ついているものと思ってよさそうだ。
西側に回ってみると、兵舎の窓にもまったく光はない。不寝番を除くとそれこそ朝の起床は早く、就寝も早くする習慣なのだろう。
その、兵舎の端まで壁沿いに移動してみた。
角を曲がると、町の西側や南側が見通せる。
町中も寝静まり、ほんのわずかに点々と光が覗き見えるか、という眺めだ。
ここから町の西門までは、直線距離で五百メートル弱。
木の柵を越えるなり、正面門を突破するなりがもしできたとして、見張りの目に触れたとしたら長距離走の足をもってしてもそのまま逃げ続けるのは難しいだろう。
敷地西側の木の柵の外は、狭い空き地を挟んで町の東方面より大きめの民家が建ち並ぶ。
領の重鎮や裕福な商家などの住まいだろうか。ほとんどしっかりした塀に囲まれていて、乗り越えながらその方向に逃亡を図るのには困難がありそうだ。
それでもそちら方面、いちばん有望そうなのはさっき見た林を経由して身を隠しながら進むルートだろうか。
建物の北西の角に戻る。
ここからが林まで最も近そうだが、直線距離百五十メートルといったところか。走ったとしてもよほど運がよくない限り、南北どちらかの見張りの目に留まりそうだ。
――それでもまあ、最低限の状況は掴めたか。
集めた情報を頭の中で咀嚼して。
まあ何とかするか、と心を決める。
領主邸のざらついた石壁を、改めて掌で撫でながら。
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