100 契約してみた
ということで翌日は午過ぎまで作業場を監督し、その後商会に出向く心積もりをしていたのだが。
日が傾き出した頃、戸口に詰めていたサスキアが「牛車が入ってきた」と告げてきた。
出てみると、樽を数個積んだ荷車を引く牛の横に、ジョルジョ会長が歩いてきている。
「やあハックくん、久しぶり」
「どうも。わざわざ来て下さったんですか」
「こいつを運ぶ都合があったのでね」
積まれていた樽は、長期熟成を予定していたミソのものだ。
これまで販売に回していたものは一週間程度の熟成で済ませていたのだが、塩分を増やして長期放置する、要するに前世でのふつうの味噌に近いものを目指して仕込んだ樽が四個ほど元の作業場に残されていた。あちらで来てもらっていた職員の人たちにそういう説明をしてあったので、会長はわざわざ運んできてくれたということらしい。
倉庫に運んでもらい、ニールに指示して状態を確認させておく。
「わざわざ済みません」
「いや、こちらに商品を運搬するついでだったからね。それにしても久しぶり、十日以上ぶりになるか。ハックくんはさんざんな目に遭ったそうだが、大丈夫かね」
「ええ、身体の方は問題ありません」
作業場の奥の間に招き、床に座って話すことにした。
あいにくながら、椅子などを用意した応接室のようなものはない。
囲炉裏脇に胡座をかいて対面したところに、ナジャが茶を淹れて運んでくれる。
こちらと作業場の両方を見渡せる位置に、サスキアが控えたようだ。
にこにこと、会長は木の茶椀を口に運んだ。
「とにかくも、君の無事を確認して安心したよ」
「ご心配をかけました。何にせよ、こちらとしても思いがけない成り行きになったもので」
「そのようだねえ」
こちらの支店長から手紙で報告を上げてもらってはいるのだが、改めて事の成り行き――ダグマーにも説明した、外聞用――を一通り話す。
ふんふん、と会長は真顔でそれを聞いていた。
「領主様がそこまで考えていたとは、こちらでも予想できなかったね。イーストの権利を領の側で取り上げようとしたわけか。その後領主――いや、元領主様だね、あの方はこのマックロートに連行されたという話だが、それ以上詳しい話は入ってこない。一方、あちらの二つの商会が営業停止になったことからして、元領主と結託していたことはまちがいないようだ」
「そうなんですか」
「しかしそれ以外はあちらでも、まったく訳分からない話になっているんだよ。とにかくもあの領主邸から、建物以外のすべてのものが消え失せていたというんだから」
「はあ?」
――と、驚いてみせる、しかないだろう。
こちらにとっては、初耳の情報になっているはずだ。
「どういうことですか、すべてのものが消え失せたって」
「まったく訳分からないのだが、文字通りのことらしい。領主邸の中にあった家具や装備品、領の重要書類や金銭、すべてがなくなっているというんだな」
「そんなこと――あり得るんですか」
「あり得るはずもない。しかしそのとき邸内にいた者の証言では、一瞬にしてすべてのものが消失したという。そんなことで大騒ぎになっているところへ侯爵領兵に攻め込まれて、即時全面降伏ということになったようだ」
「
「まったくだね。町の者たちの噂では、侯爵領の何者かが信じられない魔法でも使ったのではないか、と囁かれているが。私が会って話をした限りでは、侯爵領兵の上層の人たちもまったく信じられないと困惑しているようにしか見えなかった」
「はあ」
「攻め込んで領の中枢を奪ったからには、それこそ重要書類や金銭や武器などを押さえる必要があるのだろうが、そういったものが一切合切消え失せていたというんだからね。それが事実だとしたら、確かに困惑するしかないだろう」
「でしょうねえ。僕はその領兵が攻め込んできたどさくさで脱出したことになるようですが、別に地下牢ではそんな異常事態は感じられなかったですからね。後も見ないで逃げ出したんですが、屋敷の中ではそんな不思議現象が起きていたわけですか」
「そういうことになるんだろうね」
そのように情報確認は行ったが、それ以上ここで理由解明の話などに発展しようもない。
この不思議現象、侯爵領軍の処置としてもあまり詳細は領民に広げないようにしているらしい。いわゆる、民の動揺を抑える、といった類いの目的による措置だろう。
それでもやはり人の口に戸は立てられず、ある程度噂としては広がっているとのこと。
今し方会長の口から出た「侯爵領の者が魔法を使った」という噂はほとんど冗談のレベルで、本気で信じられているわけではない。そもそも「魔法」などというものを実際見た者はなく、お伽噺に出てくる程度の認識なのだ。
それよりはやや本気っぽく囁かれているのが「神罰」という言葉と「山の大精霊の悪戯」という感じの表現だとか。
――てっきり「神罰」一択かと思っていたけど。いたのかそんな、「精霊」なんてもの。
もちろん「精霊」などというのも実際目撃者がいるものか疑わしく、「魔法」と五十歩百歩の非現実さだろうが。まあ少しは言い伝えとして民間に馴染んでいるものらしい。
自然界に不思議な現象が起きたときには、「精霊の悪戯」などと言い交わされる。
子どもたちには「山に入ると精霊に化かされるかもしれないから、深入りしないように」などと言い聞かせる。
おそらく前世日本の「妖怪」の類いに近いのだろう。何となくすぐ連想されるものでは「天狗」が妥当なところだろうか。
その辺はまあ、どうでもいい。
騒乱のどさくさで逃亡したことさえほとんど知られていないだろう小僧一人の仕業などということは、人々の頭の片隅を掠ることさえない。それが確認できれば、十分だ。
「ハック、イザーク商会の職員が来たらしい」
「ん?」
そんな話をしていると、サスキアが声をかけてきた。
訊くと、商会に訪ねてきた領の役人を職員が案内してきたとのこと。
役人は会長を訪ねてきたわけだが、同時にハックなる者にも同じ用があるということなので、こちらに連れてきたらしい。
用件は、揃って明朝領の役所に来てほしい、ということだ。
領の家宰という役職の人が会う、という。
これについては以前からイーストの製産にまつわることをイザーク商会から役所に報告していたので、その件の確認と思われる。
同時に、トーシャという者も呼んである、という。
訊くとどうもこちらは昨日の魔物に関する用件だが、ハックなる者が両方の件に共通しているので、家宰という人の面倒を省くために一緒に処理することにしたようだ。
一応納得して、会長とともに了承の返事をする。
役人が引きとった後、会長に確認してみた。
「家宰というのは、領のかなり偉い人なわけですか」
「事実上、領主様のいちばん格上の家臣ということのようだね」
聞いていくと、どうも戦国や江戸時代の
歴史などの知識があまりないので「家宰」という名称は初耳の気がするが、日本語に自動翻訳しているはずの結果でこれになっているのだから、実際に存在していた単語なのかと思われる。
とにかくも「家老」に該当するのだとしたら、かなりのお偉方と思っていいのだろう。
会長の話では、以前の男爵家では気軽に当主が商人などと会っていたが、当然侯爵となると格が違う。こういう会見は家宰やその下の役職の者が担当するのがふつうらしい。
そもそも侯爵家の家宰ともなると、男爵よりも格上であって不思議はなさそうだという。
「僕はこちらの侯爵家についてもほとんど知らないんですが、どんな方なんですか」
「このゲルツァー王国の中でも、指折りの名家と言われているね。確か二百年以上も続いている血筋で、ずっとこの地を治めている。王国北部では最大の領主ということになるはずだ。今の侯爵様は代々の中でも一二を争う名君と言われているらしい」
「へええ、たいしたものですね」
前にも考えた「日本の室町時代から江戸時代にかけてあたりに近い時代性か」と思われる状況で、全国で領地同士の争いや土地の奪い合いも絶えない中、この侯爵領では比較的安定を保っている。
南のツァグロセク侯爵領との小競り合いは年中行事のように続いているが、領の境界付近以外に被害が広がることはほぼない。
ここ数十年内で最大の汚点がシュナーベル男爵にプラッツ周辺を奪われたことだったが、今回その奪還を果たした。
というわけできな臭い地域はわずかにあるとはいえ、領都を初めとする領内の大半でこの時代としては安定した生活が営まれているということになるようだ。
「あまり大きな声では言えないが、我々としてはこれまでの男爵領より安心して商売をしていくことができそうだ」
「そうなんですね」
かの男爵とも相当な愛想のよさで接していたわけだが、裏ではそこそこの危うさを感じていたらしい。
その辺、
ジョルジョ会長としては、この機会に商会の本店をマックロートに移転することを本気で検討しているという。
前にも話題に出たように、プラッツ周辺の農産物の取扱い程度なら支店でもできる。今後イーストの製産に力を入れていくとしたら、少しでも王都に近いところに主力を置いておきたい、ということのようだ。
これから冬にかけてマックロートでイーストの工場を確立し、春頃までに本店移転を目指す、という予定を組んでいるらしい。
「というわけで、この変革にはハックくんの協力が不可欠だ。よろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
イーストの製産を商会に委譲した後は、開発者に相応の利益が支払われる。
具体的には今後十年間、売り上げの約一割から、二分の一をハックに、四分の一をニールに、残り四分の一を共同生活している孤児全員宛に供与される。その後二十年間はこの半額となる。
そういうとり決めを会長と交わし、契約書を作る。さらにこれを領に届け、言わば証人のような形になってもらう。
そこまで細かく決めたのは、例えばハックとニールがこの地から離れるなどということがあっても、残りの子どもたちに確実に供与が続くようにするためだ。
この国に特許制度のようなものはなく、今検討しているこのような契約にしても定型のものはない。翌日領のお偉方と会う際に、イースト製産の拠点を当分ここに置くことで優遇を請い、こうした契約の保証をしてもらう心積もりだという。
かなり大きな税収増が見込めるのだから、領としてもそれなりの扱いをしてくれるはずだ。
もし将来製産拠点をもっと王都寄りなどに移転することになっても、この契約は有効だ。ただこの侯爵領の保証だけでは済まなくなることも考えられるので、他の領や国への届け出も検討していく。
その他に、元からマックロートに拠点を置く商会のいくつかとイザーク商会でイーストの取り引きの契約を結ぶ予定で、これも要領を領に届け、保証してもらうことになっているようだ。
翌日の家宰との会見は、そういう予定で組まれているらしい。
「初めてハックくんと話したとき確か、ここの子どもたちと協力するのは自分の利益のため、と言っていたね」
「ああ、言いましたね」
「このイーストについては君一人で利益を独占してもいいぐらいだと思うのだが、他の子たちにも分けられるようにするわけだね」
「まあ、みんなの協力なくしてはできませんでしたから」
「そうかな。ミソに比べるとイーストの方は力仕事も少なくて、少人数でも何とかなったのではないのか」
「まあ、そこはそれ、ということで」
「まあ私としてはいずれにしても構わないのだが」
「この配分で、十分な収入になると思いますしね。あとは会長さんたちの頑張り次第で僕たちの収入も増えるわけで、よろしく期待していることにします」
「はは、そういうことになるね」
どこか上機嫌で、会長は帰っていった。
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