第102話 出立
ボムジンたちと暮らしていた家へ戻ると、コニンがひとりで出迎えた。
「お、おかえりなさい、ジュルム」
その声にわずかながら、それでもはっきりと聞き取れる怯えが、彼の心に刺さる。
そんな思いは押し込め、部屋を見回した。ボムジンは手伝いだろう。冬場でも、力仕事はいくらでもある。しかし、ヤノメがいないのは珍しい。
「ヤノメさんは、お隣に……赤ちゃんの産着をくれるって」
コニンがジュルムの怪訝な表情を読んで、教えてくれた。
産まれるのは夏の終わりごろだが、北の秋は短い。寒さをしのぐ着物なのだろう。
ジュルムは窓へと目をやった。射しこむ日差しはすでに傾いている。日か落ちれば寒さは一気に来る。二人とも、すぐに帰るだろう。
「わかった」
それだけ言って、ジュルムは部屋の隅に腰を下ろした。上着も脱がずに。
「あの……」
コニンは勇気を振り絞って申し出た。
「そこは、さ、寒いから、もっとこっちへ……」
そんな声に混ざる怯えが、ジュルムの耳には聞き取れてしまう。
「大丈夫。寒くないから」
別れを告げに来たのだ。外套を脱がない方が出て行きやすい。心がくじけにくい。
……ずっと、ここにいたい。
心の底から、そう思う。ずっと、ずっと、そう思っていた。
ボムジンもヤノメも、暖かい。コニンは……。
コニンは……暖めてあげたい。
いつ見ても、コニンは震えていた。それが恐怖か寒さかまではわからない。それでも、抱き締めて暖めてあげられるのなら、そうしたかった。
しかし、少し近づいただけで震え出すのだ。無理すぎる。
自分はトゲだらけだと信じこみ、近づけば相手を傷つけてしまうと思い込む、「ハリネズミのジレンマ」だった。
「戻ったぜー。うん? ヤノメは……あ、ジュルム帰ってたか」
ボムジンは戸を閉めると、部屋の真ん中に腰を下ろした。
「そんなとこじゃ寒いだろ、上着脱いでこっちへ」
「いや、いい」
いつになく頑なな態度に、ボムジンは気になった。
「どうした、山で何かあったか?」
「……ヤノメが戻ったら話す」
何かあったのだ、とボムジンは悟った。
「コニン、人参茶入れてくれる? ジュルムにも」
「はい」
先日、都から返礼品として米と一緒に送られて来たものだ。
「……どうぞ」
コニンに茶碗を渡され、ジョルムはその手から緊張を感じた。顔を上げると、コニンの金色の瞳と目が合った。自分と同じ、純血種の色。
銀に近い金髪を肩のあたりで揃え、頭頂部から覗くのは二本の尖った三角形の狐耳。切れ長の、少しつり上がった両目で、鼻は細く高かった。
……アルムのように、屈託なく微笑んでくれたらいいのに。
つい、そんなことを考えてしまった。
「……ありがとう」
礼を言って、一口すする。
そこへヤノメが帰って来た。
「あら、二人とも早かったのね」
手にした風呂敷のように布でくるんだ荷物を、コニンに渡す。
「これ、あちらにしまって」
衣類を収めた籠を手で示し、ボムジンの隣に座る。
「ジュルムもこっちへいらっしゃい」
手招きされたが、ジュルムは
「大事な話がある。山で、ナルイチに会った」
ぱさり、と音がした。コニンが、手渡された産着の包みを取り落としたのだ。拾うこともできず、その場で身を硬くしている。
「ベイオと手を組んで、中つ国を攻めると言っていた」
「ベイオが……?」
ボムジンが顔をしかめる。
「この国の兵は、いないも同然ですからね。食料などを融通するのでしょう」
ヤノメは理解が早い。
ジュルムは、立ちすくんだままのコニンを見つめ、言葉を続けた。
「アイツが戦をすれば、コニンみたいな子がたくさん泣く。俺は、そんなの嫌だ」
コニンもジュルムに目を向けた。涙で一杯の目を。
「ジュルム……」
「怖がらせてばかりで、ごめん。俺は、君の笑顔が見たい」
何かが、コニンの胸を貫いた。声が出ない。微笑みたいのに、涙が止まらない。
ジュルムは、ヤノメとボムジンに向かって告げた。
「アイツは中つ国の皇帝となるために、強い奴を倒していく。なら俺は、弱いものが傷つかないよう守りたい」
そのために、自分に何ができるのか。
わからない。ただ一つわかるのは、ここに座っていたのでは絶対にわからないままだ、と言う事。
ほう。
ボムジンは息を一つ吐くと、つぶやいた。
「それじゃ、行くのか」
ジュルムはうなずいて言葉をついだ。
「ベイオも苦しむ。あいつにとっては、この国も中つ国も同じだ。人が死ぬのが嫌なんだ」
攻めこんで来た軍隊を殲滅した時、目の前で彼は吐いて倒れた。
「ベイオが苦しめば、アルムもファランも苦しむ。俺は、大事な人には笑っていてほしい」
ヤノメが、ほつれた一本の髪の毛を弄りながら言った。
「今すぐ行くのですか?」
「ああ。アイツが戦を始めてからじゃ遅いから」
そう言うと、ジュルムは立ち上がった。
コニンが必死で声をあげる。泣きながら。
「帰ってきて。必ず、帰ってきて」
「わかった。必ず」
そう言うと彼は部屋を出て、そのまま身一つで冬山を目指して走り去った。
「……行ってしまいましたね」
泣き崩れたコニンを抱きかかえながら、ヤノメはつぶやいた。
「ベイオに伝えた方が良いでしょう」
「だが……どうやって?」
ボムジンは腕組みしながら考えた。無い知恵を捻って。
冬場は人の交通も減る。獣人飛脚も北の国境までは届いていない。かといって、家族を残してボムジンが向かうわけにもいかない。
「仕方ありませんね。ちょっと痛いですけど。えい!」
手の上に浮かぶ龍の子に向かって、ヤノメは告げた。
「ヤノメからベイオへ。ジュルムがナルイチを追って出奔しました。弱い者を助けたい、と言って」
ヤノメが言葉を切ると、龍の子は掌から舞い上がり、明かり取りの窓から飛び去った。
「便利なもんだな」
窓を見上げたまま、ボムジンがつぶやく。
「滅多に使えませんよ。髪は女の命なのですから」
つん、と澄ました顔のヤノメ。
「確かにな。禿げたら困る」
そして、がはは、と笑った。
ヤノメの膝から、コニンが声をあげた。
「ジュルム、大丈夫?」
「大丈夫よ、あの子は強いから。強くて優しいから」
いとおしげにコニンの髪をなでながら、ヤノメは言葉をついだ。
「あなたはその間、自分を磨かないとね」
「……はい」
窓の外には小雪がちらついていた。冬の間、冷たく乾燥したこの地では、滅多に降らない。南から暖かい湿った風が吹き込んできたのだろう。
少しずつ、春は近づいていた。
* * *
ベイオは首脳陣と会議をしていた。
共にいるのは、宰相のゾエン、シスン元帥、二人の老賢者。場所は迎賓館の一室、ゾエンが執務に使っている部屋だ。
一同の前の卓には、麗国を中心にした地図が置かれている。
「中つ国をとるナルイチを、後方から支援する、と言う訳じゃな」
シェン老師の言葉に、シスン元帥は苦い顔でうなずいた。
「この国の兵力はまだまだ再建中です。先日、二組目の百卒長が十名、訓練が終わったばかりですから」
百卒長は百人の歩兵を
しかし、その二千人はかつてのような烏合の衆とは違う。少なくとも、敵前逃亡はしない。規律のある、戦える二千人だ。
とは言え、他国に派兵するには少なすぎる。それどころか、国の守りすらおぼつかない。
再建と言うより、全くゼロからやり直しているのだ。時間がかかる。
ゾエンがつぶやいた。
「しかし、また戦か。人が死ぬな」
その言葉に、ベイオは胃の辺りを押さえる。さっき食べた食事が、いつまでたってもそこにある。
そこへ、小さな影が窓から飛び込んできた。影は淡い金色の光をまといながら部屋を飛び回り、やがてベイオの前の卓上に止まった。
……タツノオトシゴ?
伝令の龍の子は、ヤノメの声でジュルムの出奔を伝えると消滅した。あとには長い黒髪が一本残った。
「便利な呪法じゃのぅ」
横から手を伸ばして髪の毛をつまみ上げ、シェン老師が感想をのべた。
「是非教えてほしいものじゃが、わしには使えんな」
ツルリと自分の頭を撫でる。
「ジュルムが……」
ベイオは驚きを隠せなかった。
「弱い者を助けるって、どうするんだろう?」
そこが心配だった。真正面からナルイチとぶつかったら、共倒れだ。
「わたしに考えがあります」
ギョレン老師が声をあげた。
「ジュルムの相談役として彼を助けましょう。中つ国には知古が多くおります」
シェン老師がポンと膝を叩いた。
「なるほど、お主なら適任じゃな。……しかし」
そこで顔を曇らす。
「アシはどうする? 車イスで動ける範囲は限られるぞ。護衛も必要じゃ」
すると、戸口から声があった。
「そのお役目、是非わたしに賜りたく」
廊下の冷たい床の上に、ジーヤが
「若が出奔なさったなら、付き従うのが我が役目。ギョレン老師のお車を引き、警護も勤めましょう」
ベイオはうなずいた。
「それが一番だね。ジーヤさん、お願いします」
こうして、ジュルムへの支援もまた、ベイオが担うことになった。
「そうなると、問題は連絡手段だね」
ベイオは一同を見回した。
「弱い者を助けるってのは、難民の保護だろうから。大陸の奥地と密な連絡をとる方法がないと、必要なときに物資を届けることができないもの」
その言葉に、皆うなずいた。
それを、電話も無線もないこの世界でどうするか。ベイオの課題だ。
……ジュルム、無茶はしないでね。
今は祈るしかないのが、何とももどかしかった。
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