第111話 虫の命、命の教え
その幼虫は、ベイオの手の上で無心に桑の葉を食べている。長さは数センチ、胴は彼の親指よりも太く、白く滑らかで半透明に見えた。
この地で育った蚕だ。桑の葉と共に、そっと箱に戻す。箱の中には桑の葉が敷かれ、同じような沢山の幼虫がそれを食べていた。
傍らのアルムは、初めのうち、箱の中でうごめく幼虫を気味悪がっていた。しかし、ベイオが手にのせていたのを見て、気が変わったようだ。
「よく見ると、かわいいだ」
自分も真似して、手の上で桑の葉を与えている。
ここは都から少し離れた場所に作られた養蚕場で、周辺は桑畑として開墾されたばかりだ。植えた苗木が育つまでは、山に自生している桑から葉を取って与える。
「もうじき、繭を作りだします」
案内をしてくれたのは、ディーボンから渡って来た養蚕業の熟練者だ。中年の夫婦で、麗国に養蚕を根付かせるために、先月から頑張ってくれている。
「ありがとうございます」
ベイオは彼らを
……でも、これって技術を盗んでるんだよね。
職人が師匠から技を盗むのとは違う。ディーボンが懸命に積み上げて来た技術を、ベイオは技術者ごと盗み取ったのだ。
しかし、そうしないと絹の量産化は不可能だ。今までのように、生糸や乾燥繭をディーボンから輸入しているだけでは限りがある。
そう言い聞かせて、罪悪感を心の底にそっと押しこめる。
技術学校を開いてまで、この国の技術力を底上げして来たのだ。ベイオにとって、技術やノウハウの価値は重い。努力せず成果だけを手にするのは、その価値観から大きく外れる。
だから、今後もディーボンからの乾燥繭の輸入は減らさず、ディーボン向けの絹織物に使う。純国産の分は、遊牧民や彼らを介した中つ国向けに輸出する。
将来的にその比率は変わるかもしれないが、ベイオにしてみれば交易で一方的に利益を上げるのは得策ではない。軍事力が無さすぎるこの国は、周辺国との軋轢は少ないにこしたことはないのだから。
「あと半年、と言うところじゃな」
白く長い顎髭をしごきつつ、老師がつぶやく。
どうしても見学に同行すると言い張っただけあって、さっきまで一言も発することなく、食い入るように蚕を見ていたのだ。
「そうだね、織物ができるくらいの生糸が一度に取れるまで、それくらいかかるね」
ベイオも同意する。
蚕の一生は一、二ヶ月。一匹の成虫が一度に何百もの卵を産むので、数を増やすのは容易い。しかし、桑畑が育たなければ餌が足りなくなってしまう。
だから、しばらくは数を増やさず、繭のほとんどは煮られて生糸とされる。ここにいる蚕たちは、蛹のまま一生を終えるのだ。それが一カ月で、卵を産んで死ぬまでが二ヵ月だ。
残酷なようだが、蚕は極限まで家畜化された昆虫だ。人に飼われないと生きていけないし、子孫も残せない。成虫の蚕蛾など、食物を摂る口すら退化してる。エサとなる桑を栽培し、人が手をかけてやらないと、たちまち死滅してしまう。
この国で養蚕が途絶えてしまったのは、このためだ。蚕のエサより前に、自分たちの食糧で手一杯だったのだから。
貧しさゆえに、貧しさから脱することができない。このジレンマを撃ち破る決め手が、絹をはじめとした繊維産業であり、養蚕だ。
……昔の日本では、「お蚕さま」って呼んでたんだよな。
森羅万象に神が宿る国だ。手塩にかけて育てる蚕も神格化する。
その命をこの国の富へと変えてくれる蚕たちに、ベイオはそっと手を合わせた。アルムも真似をする。
「お主は時々、その仕草をするのぅ」
老師の言葉で、ベイオは改めて気づいた。この国では、「拝む」という行いが見当たらない。それは、呪教に「神仏」が存在しないからだ。
この世界の法則を解き明かしたものが、呪教の教えだ。
……まあ、その「解き明かし」そのものが呪術的なんだけど。
前世で慣れ親しんだ科学体系とは異なる、それでも呪法として役立っている学問ではあり、宗教だ。
しかし、ベイオから見ると天動説そのものだ。ガリレオを迫害した中世のローマ教会に思えてしまう。
養蚕場から帰る車上で、そんなことをベイオは考えていた。アルムは車を引く父親の横を歩きながら、盛んに獣人語で話しかけていた。多分、蚕の事だろう。
隣に座る老師が、ポツリとつぶやいた。
「お主の村の周囲には、ボッ教の隠れ寺があったかのぅ」
耳慣れない言葉に、ベイオは聞き返した。
「ボッ教とは何ですか?」
「麗国が建国した当時、盛んだった教えじゃ。呪教が入ってきて廃れたがの」
少し興味が出てきた。
「どんな教えなんですか?」
「わしも、詳しくは知らん。経典の殆どは焼かれてしまったからのぅ。確か、人は誰でも正しい生き方をすれば、死後は不滅の存在となれる、というものじゃったかな」
ならば、前世の仏教とそっくりだ。呪教では先祖を敬うが、そのほとんどの教えは現世利益しか掲げていない。死後とか来世などは出てこない。
「正しい生き方って、何をするんでしょう?」
「色々あるが、要するに憎しみや妬みなどの悪い感情を抱かず、周囲の者と助け合って睦まじく生きること、じゃな」
ますます、仏教に似ている。ベイオの脳内で、「親睦」の漢字がはまった。
つまり、
「その睦教徒は、賎民たちの中にわずかだが残っておる。獣人にも、かつては広まっておったようじゃ」
それを聞いて、ベイオは車を引くアルム父にたずねた。
「アルム父さんは睦教って知ってる?」
「はい、故郷のタンラ島には奉じる者がおります。役人たちからの迫害が酷くて、表だってはいませんが」
車を引きながら、彼は答えた。
「実を言えば、私も内心では睦教に帰依しております」
意外な告白に、ベイオは正直驚いた。
……隠れキリシタンじゃなくて、隠れ睦教徒だったんだ。
前世の記憶が戻る前の、幼いベイオがアルム父を慕ったのは、そんなところもあったのかもしれない。
「正しく生きれば誰でも、てことは生まれとか関係ないから、もっと広まってもいいと思うのにな」
何気なくつぶやいたベイオだが。
「ベイオ。他の貴族の前では、それは口にせん方がよいぞ」
老師の低い声で悟った。
……そうか、身分制度か。
厳格な身分制度を肯定し、上位は下位に何をしても許される呪教に対し、誰もが等しく仏(に当たるもの)に成れるとする睦教。まさに、相容れない教えだ。
それだからこそ、激しく迫害もされるのだろう。そして、それ故にベイオはかつて、死刑宣告まで受けたのだ。
ベイオが「生まれ」で考えていたのは、獣人たちだ。
車を引くアルム父と、その横を歩くアルム。異国の地で頑張っているはずの、ジュルムとジーヤ。ラキアたち移住組。
そして、ファランの孤児院にも何人かいる。
ベイオの周りでは誰も差別などしないが、この国全体を見ればまだまだ差別は多い。国境を越えると、遊牧民の中にも差別はあるらしいし、中つ国はさらに酷いという。
人と獣人の違いなんて、ベイオにとっては前世の人種の違いでしかない。なにしろ、結婚すればアルムのように元気な子供が生れるのだから。
「ねぇ、老師さま。呪教と睦教、どっちがより多くの人を幸せに、豊かに出来るでしょうか?」
ベイオの率直な問いかけに、老師は咄嗟に答えが出なかった。
何しろ、その長い人生のほぼすべてをかけて、呪教を学び続けて来たのだ。これが世界を治める唯一の教えだと、確信すればこそだ。
「難しいのぅ。何をもって、幸せや豊かさと呼ぶかによるからの」
呪教がもたらしたものは秩序だ。皇帝や国王を頂点とした身分制度は、建国直後の不安定なこの国を安定させるのに役立った。それによって戦乱が納まったからこそ、人々は生きながらえた。
しかし、その秩序が硬直化・形骸化し、この国の発展を阻害しているさまも、嫌と言うほど目にしている。
「話しを単純化します。どっちなら、より多くの民が飢えなくて済みますか?」
ベイオの願いは、ただその一点だった。
飢えた民は死ねばいい。そんな今までの統治のあり方だけは、絶対に認めるわけに行かなかった。「春先に消える子供」は、かつてのベイオやアルムだったかもしれないのだから。
老師は考えた。
人の命の重さを。
蚕の命をも軽んじない、ベイオの心を。
上位は下位を食い物にし、下位はそんな上位に取り入ることでしか生き延びられない、この国の病巣を。
では、睦教の教えるとおり、全ての人が教えのもとに対等だとしたら?
それはまさに、脳天への直撃だった。
……こんなに何度も食らってしまっては、白髪が増えるのぅ。
そう思いつつ、すでに一本も残っていない事を思い起こす。
「戦乱さえ防げるならば……睦教の描く世の中の方が、飢えは起こりにくいじゃろうな」
考えぬいたあげくの老師の言葉に、ベイオは微笑んだ。
「なら、決まりだね」
そして再び、老師はベイオの言葉に戦慄する。
「呪教と睦教、統合しちゃおう」
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