第64話 龍の羽衣
ゾエンは必死だった。
目の前に佇むヤノメの、一糸まとわぬ姿に目を向けないように。
ベイオが危惧したとおり、龍に社会常識を理解させるのは前途多難だろう。
仲間から離れて単独で馬を駆り、ゾエンは国王が逃れたというギジュ郡まであと一日のところまで来ていた。
そこへ突然、天から黒い龍が舞い降りて、変身したのだ。
ヤノメが龍だと言うのには驚いたが、呪法に長けていたのは目にしていたので、まだ理解できた。
しかし、全裸と言うのはこまる。屋敷ではエンジャが待っているのだから、非常に困る。
「ゾエン殿。ベイオと老師は、既に屋敷に戻っております」
「そうでしたか。それは何より」
ゾエンは一礼したまま、顔を上げられない。
ファランはベイオがどこにいるか気に病んでいたが、これで安心だ。
ヤノメは長い黒髪を衣のように体にまとわせてるが、これでは安心できない。
「ベイオが、現地に置き去りにしてしまったジーヤとジュルムを、あなたの護衛に付けたいと申しております。二人には既に、こちらに向かうように伝えました」
「それはありがたい。ベイオに感謝の意をお伝えください」
だが、一つ問題があった。
「彼らと合流するにはどうしましょうか? どこか目印となる場所で落ち合うとか」
それまで全裸の女性と一緒というのは、色々とまずい。
「では、野営の時にこの香をお焚きなさい」
どこから取り出したのか、ヤノメは小さな壺をゾエンに手渡した。蓋を開けてみると、その中には蝋のような固形物が入っていた。独特な香りがする。
「これは、もしかして……」
「龍涎香です。獣人なら、この香りを何里も先から嗅ぎ分けられます」
重量当たり、純金の数倍する貴重品だ。それを、狼煙の代わりに使えとは。
……金銭感覚がおかしくなるな。ボムジンは大丈夫だろうか?
いらぬ心配までしてしまった。
「それでは、わたくしは屋敷に戻ります。あなたの交渉が上手く行きますように」
「はい、ありがとうございました」
ゾエンは、ずっと頭を上げられないままだった。
* * *
戻って来たヤノメを見て、ベイオは目を丸くした。
「なんか……さっきと衣服が違うんだけど」
出て行くときは、十二単の軽装版みたいな色とりどりの重ね着だった。それは、付き従っている女官が畳んで持ってる。
ヤノメが今着ているのは、下民の女性が着ているような白い衣だった。
「はい、折角なので、この国で一般的な衣を出してみました」
「……あの、出すってどこから?」
「呪法ですが、なにか?」
……なにかって……老師さまの教えとかなり違うような。
呪法は「自然」を操る法理だ。
無から有を生みだすような「不自然な」ことは、出来ないはずなのだ。
……まぁ、瞬間移動なんてやってくれたからな、龍さんは。
現時点で理解が及ばないことは、素直に「わからない」として棚上げするのも、科学的な思考法には大切だ。
そもそも、呪法それ自体、理解しているとは言い難い。
「母と大喧嘩して飛び出した時に、それまで来ていた服は破けて散り散りになってしまいました。こちらに降り立った時にその場で出したのが、これです」
女官から畳んだ衣を受け取り、ヤノメは話した。
「まあ、そのせいで最後の呪力を使ってしまって、意識が無くなったわけですけど」
……それで、ボムジンに助けられたんだね。
そう脳内でつぶやいて、ベイオはあることに気が付いた。
「それじゃ、ジーヤたちやゾエンさんに会うたびに、衣を出しては置いてきたの?」
なんだか、天の羽衣の使い捨て版だな、とベイオは思ったのだが。
「いえ、すぐにまた変身するのですから、呪力がもったいないです」
……て、ことは。
「あの……それはボムジンには黙っていようね」
「何故でしょうか?」
……これだから、龍って存在は。
「だって……ボムジンという夫がいるのに、ゾエンさんたちに裸を見せちゃったんでしょ?」
「はい……まあそうなりますけど――」
そこでようやく、ヤノメは気付いたようだ。みるみる青ざめていく。
「も、もしかしてヒトの男性は、女性の裸に大きな意味をお持ちで?」
「うん……結婚してたら、旦那さん以外に裸は見せないんじゃないかな? 僕は子供でよくわからないけど」
肝心なところは外見年齢で逃げる。
中身は大人だけど見た目は小学生だからボクワカラナーイ。
「どうしましょう? 彼に嫌われたら、わたくしは生きていけません!」
おろおろしだすヤノメ。
「大丈夫だよ。ゾエンさんもジーヤも、そんなこと言いふらしたりしないから」
一人抜け落ちてるが、子どもだから問題ないはずだ。
それに、とベイオは脳内でつぶやいた。
……心配すべきはそこじゃないよね。奥さんが龍だと知ったら、ボムジンどう思うだろう?
そこで、ベイオは気が付いた。
……ヤノメさんは龍の姫君だから、乙姫様だよね。
竜宮城ではなく、富士の山頂に住んでいたようだが。
……ボムジン、浦島太郎にならなきゃいいんだけど。
「あの……ヤノメさん、玉手箱なんて持ってないよね?」
「はぁ。これのことでしょうか?」
例によって、どこからともなく取り出される、漆塗りの小箱。
「う……うん、それ、絶対にボムジンに渡さないでね」
「ええ、まぁ。中身はわたくしの化粧道具ですから、彼に渡しても使い道はないでしょうけど」
確かに、ボムジンが化粧したところなんて想像できないし、したくない。
「えーと、僕の知ってる昔話だと、それを男の人が開けてしまうと悪い事が起こるんだ」
「それは不吉ですね。大切にしまっておきます」
再び、どこへともなくしまわれる。
しかし、最大の問題は解決してない。
ボムジンに、ヤノメが龍だと教えるべきかどうか。
……夫婦の問題だから、本人たちに任せよう。
ボクワカラナーイ。
* * *
翌日。北都から引き返して来た後発組が、屋敷に戻って来た。
「ベイオ!」
涙ながらに駆け寄るファラン。
抱き留めるベイオに、アルムも飛びついてきた。
「お帰り、そしてただいま」
両手を一杯に広げて、ベイオは二人を抱きしめた。
それを見つめるアルム父は微笑んでいる。
一方、ボムジンとヤノメも熱い抱擁を交わしていた。
「愛しいあなた。離れている間は、寂しゅうてたまりませんでした」
「ああ……俺もだよ」
ボムジンの方には、まだ戸惑いがあるようだ。
……頑張れボムジン。ヤノメさんの事は任せた。
旅の間、ヤノメは寂しがってるそぶりは見せてなかったが、わざわざ指摘する必要はないだろう。胸のうちに秘めてたってことで。
その傍らでは、イロンが腕組みしながらも微笑んでた。遠い昔の愛妻との思い出に浸っているのかもしれない。
「さあ皆さん、屋敷の中へどうぞ。旅の疲れを癒してください」
すっかり女主人が板についたエンジャだ。
「以前の部屋はそのままにしてお掃除などしてあります。あ、ボムジンさんとヤノメさんはご夫婦ですから、別にお部屋を用意しましたので」
「はぁ、ありがとう」
かつて振られた相手の世話になるので、ボムジンは少々居心地が悪そうだ。
が、そこで彼は宣言した。
「なるべく早く、家を構えよう。二人で住むための」
間借りしていたのでは、色々と不都合だ。なにせ、新婚なのだから。
「素晴らしいですわ、ボムジンさん」
ヤノメも頬を染めて喜んでる。
「ってこたあ、俺たちの出番だな、ベイオ!」
パン、とイロンがベイオの背を叩いた。
「新築するんだ。それいいね!」
ベイオも意気込んだ。
「いや、待ってくれよ。俺は借家でも何でも……」
ボムジンは戸惑った。
持ち合わせは結構あったが、家一軒分とは行かない。それに、新築なら相当な日数がかかってしまう。
そんなに長く「お預け」されたら堪らない。
「そうだね。最初は借家で暮らしてもらって、その間に建てちゃおう」
ベイオにしてみれば、昔取った杵柄だ。伊達に工業高校建築科を卒業したわけではない。
もっとも、生前のように電動工具や工作機械が溢れてるわけでもない。全て手作りと人力だ。
……でも、人力と言っても獣人パワーがあるし、水車の動力鋸なんかもあるし。
「あ」
思わず声が出た。
「どうしただ、ベイオ?」
アルムが顔を上げて聞いた。
「うん。作りたいものを思いついたんだ」
「なに? どんなの?」
目を輝かせるアルム。
ああ、こうでなくっちゃな。そうベイオは思うのだった。
* * *
家を借りる方は、新婚の二人に任せた。
新築の間取りは、ベイオが二人から要望を聞いて図に起こした。
「間取りってもよ。寝る所とか食う所とかありゃ充分だぜ」
とかいうボムジンだが、ベイオは首を振った。
「ダメダメ。ヤノメさんはお子さんが沢山ほしいんでしょ? なら、部屋数もそれなりになけりゃ」
そばで子供が寝てたら、子作りとか大変だよね。
と、見かけは子供だけど大人の中身が脳内でつぶやいた。
「ゾエンさんのお屋敷とまではいかないけど、ヤノメさんが掃除で困らないくらいの広さは欲しいよね」
とはいえ、呪法をフル活用したら、屋敷の隅々まで一瞬でピカピカになりそうだ。
「そうですわね。わたくしも、家事はあまり経験がありませんし」
うなずくヤノメ。
彼女は「日常生活でなるべく呪法に頼らない」という宣言をしている。実際には、長い髪の手入れなど、呪法がないと一人では大変なのだが。
それでも、家事全般は自分の手でやりたいと言う。
「というわけですので、どうぞご教授ください」
ヤノメはエンジャに三つ指ついてお辞儀した。
「いえいえ、こちらこそ」
エンジャもお辞儀する。
ヤノメが実は龍だと言う事は、一応、伏せられている。なので、エンジャから見た彼女は、異国ではあるが高い身分の家の息女、という認識だ。
その場合、本人に家事をしっかり教えるか、侍女にやらせるかは家ごとに異なる。エンジャの生家は前者だったが、大半は後者だろう。
しかし、今から学んでも遅くはない。
ヤノメが身分の違いなど気にかけていないのも、エンジャから見ると好ましかった。
……なんとか、力になって差し上げましょう。
そう、心に誓うエンジャだった。
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