第88話 ファランの冬
「姫さま、ベイオさまが戻られました」
夕日が差し込む舘の廊下。女官長のイスルが扉の前で声をかけた。
しかし、室内から返事はなかった。イスルが戸を開けて中の様子を見ると、ファランは自室の隅で壁に向かって正座したままだった。
しばらく沈痛な面持ちでイスルは立ち尽くしていたが、やがてため息をひとつつくと、戸を閉めて立ち去った。
壁に向かって、ひたすら座り続ける。老師に教えられた呪法の修行、瞑想のやり方だが、もう三日三晩続いている。空腹よりも疲労で意識が薄らぐが、一睡もしていない様子だ。
そこまで行くと、呪力の拡大どころではない。単なる苦行でしかなく、緩慢な自殺だとさえ言える。
そのファランの肩に、そっと手が置かれた。
はっと顔を上げる。
「……ベイオ」
会いたかった。見たかった顔。
会ってはいけない今なのに。見てしまえば、もう抑えきれない。隈ができた両目からは、涙がとめどなく流れた。
「ファラン。大変だったね」
彼女の隣に座ると、ベイオはそっと肩を抱いた。その温もりに包まれて、抑えてきたものが一気にあふれ出した。
「こんなにやつれて……」
「ベイオ! ベイオ! セイロンさんが……」
二つも年下で、自分より小柄な彼の身体にすがりつき、ファランは泣きじゃくった。セイロンの死を目の当たりにしても、流れなかった涙が。
「セイロンさんが、わたくしのせいで……」
声を詰まらせるファラン。
ベイオは彼女の髪をなで、優しく声をかける。
「ファランは悪くないよ。悪いのは、逆恨みした方」
だが、
「違うの。わたくしなら、防げたはずなの!」
ベイオから身を離し、泣き濡れた顔を上げる。
「夢見の娘なのだから!」
……そうか、それで。
ベイオは理解した。
ファランは何度も予知夢を見ている。
最初は叔父である王弟の暗殺。次に、この国を食いつぶす顔のない獣。そして、ベイオの処刑を。
王弟暗殺以外は、予知夢だと分ったことから未然に防ぐことができた。
服の袖で、彼女の涙を拭う。
……以前も、こんなことがあったな。
初めて二人でシェン老師の講義を受けた時。春になると姿を消す子供の事を話した時だ。
そのすぐ後だった。ファランが予知夢を見たのは。
「今回、予知夢は無かったんだよね?」
「……ええ」
つーっと涙が、白い頬を伝って落ちた。
「大切な人なのに……予知できなかったのです……」
ファランの両親は健在だが、ベイオとの婚約が決まってからは、すっかり自分の屋敷にこもって隠居状態だ。
それに対し、セイロンは年齢的にも、知識や経験の面でも、ファランを庇護し助けてくれていた。実の父親以上に。
「肝心な時に助けてくれない夢見の力なんて、欲しくない」
絞り出すような声。
……重すぎる業だな。
ファランは今年、数えで九歳。前世の日本なら、まだ小学生の三年生ほどだ。その年齢で、孤児院を立ち上げ、大人たちとやり取りをしてきているのだ。
ベイオのように、前世の記憶で底上げなどされてない。彼女こそ、本来の意味での天才だろう。
しかし、中身は傷つきやすい子供。
そこに、不完全だが未来を覗く力……いや、強制的に見せられるのだから、それこそ呪いに近いものまで背負わされているのだ。
理不尽なまでの重荷。そうとしか言いようがない。
「だから……今度はもっと大切な人が死ぬ夢になるんじゃないかと……」
……それで予知夢を恐れて、眠るのを拒否していたのか。
「大丈夫だよ、僕が一緒にいるから」
気休めにしかならないとは思いながら、ベイオはそう言って抱きしめた。
すると、戸口から見覚えのある尻尾が覗いていた。
「アルムもおいで。久しぶりに、今夜は三人で寝よう」
サッと駆け寄って来て、アルムは反対側からファランに抱き着いた。
「おらもファランといっしょにいるだよ?」
そう言って、アルムはファランの濡れた頬に自分の頬を摺り寄せた。
「……ありがとう、アルム」
そうささやくように言うと、ファランはそのまま深い眠りに落ちて行った。青白かったその面差しには、ようやく微笑みが戻ったようだった
その夜。
ファランの部屋で、アルムも一緒に川の字で横になったベイオだが、なかなか寝付けなかった。
……反皇帝派を何とかしないと。
ジュルムが取り押さえた「口利き屋」のゴン・ザンゲンは、尋問の結果、反皇帝派に利用されていたことが判明した。女奴隷をよこさないと潰す、とまで追い詰められたらしい。
ザンゲンには全く同情できないが、相手の弱みに付け込んで無理を押し通し、こんな惨たらしい事を引き起こす反皇帝派は許せない。
しかし……ゾエンが色々手を打ってくれているようだが、なかなか制圧するのは難しい。
そもそも、貴族や上級官僚たちは、程度の差はあれ皇帝ベイオに反感を抱いている。ベイオの血筋に対する疑いと、ベイオの才能へのやっかみだ。
謀殺されたベイオの実父や祖父は、それなりに地位もあり名の通った人物らしい。しかし、ベイオがその血を引いてるのかどうかは、密かに疑う者も多い。
要するに、地方に逃げ伸びた母エンジャと現地の男との間の子ではないか、という疑惑だ。
もっとも、ベイオにとってはどうでもいいことだ。会ったこともなく、顔も知らない父親や祖父より、愛情深く育ててくれた母、エンジャがすべてだ。
とはいえ、ゾエンがエンジャを正妻として娶り、ベイオを養子としたのは、そうした疑惑から守る意味もあったのだろう。
しかし、疑惑自体は貴族や官僚の中に渦を巻いている。濃い薄いの差はあれど。そのため、皇帝への反感の有無だけを尺度にしてしまうと、全員が反皇帝派と言う事になってしまう。
これでは、国の統治が成り立たない。
一方では、ベイオの示す才覚への期待も同じように濃度の差はあれ渦巻いている。都の汚物や台風被害への対策、中つ国の軍勢を撃退など、評価せざるを得ない成果も出ているのだから。
制圧は困難だが、これまでに捕らえた反皇帝派の実行犯からは、中心になって扇動している者の姿が二人、浮かび上がってきている。
どちらもベイオと浅からぬ因縁がある。
ベイオが育った村の元代官、チェ・ヤンドン。
その密告からベイオを処刑しようとしたイル・サガン。
名前は上がっているが、直接襲撃に加わったり、ザンゲンへの脅迫に手を下したりはいない。そのため、居場所を掴むのが難しい。
……地道に成果を上げて、疑惑を評価に変えていくしかないか。
反皇帝派の洗い出しと対策は、これまで通りゾエンに任せるしかない。そうなると、貴族や官僚の取りまとめだったセイロンを失ったことは痛手だ。
ベイオは目を開き、傍らで眠るファランをの横顔を見た。泣きはらした顔は、今は穏やかだ。
反対側でも、アルムがすやすやと寝息を立てている。相変わらず、寝相が凄いが。
……考えても答えは出ない。なら、今は眠ろう。
そう思い、うとうととまどろみ始めたその時。
「ボムジンさん!」
そう叫んでファランが飛び起き、ベイオも目を開いた。
予知夢だ。間違いない。
ガクガクと震える彼女を抱きかかえつつ、心の中で叫ぶ。
……こんな時くらい、休ませてくれればいいのに!
ファランに予知夢を見させる何者かに、無性に腹が立った。大事な仲間の危険を知らせてくれるのは良い。すぐにも助けに行きたい。
なら、なんでセイロンは見捨てて、ファランにトラウマを残したのか。
あまりの理不尽さに怒りが渦を巻くのをぐっとこらえ、ベイオはファランを支えて立たせた。
彼女に対しては、冷静に、穏やかに接してあげないと。
「行こう、ファラン。みんなに聞いてもらわないと」
廊下に出ると、明り取りの窓から月光が射しこんでいた。
その光に照らされたファランの顔は、これまでの夢見よりも憔悴しきって見えた。
……残酷すぎる。
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