第7話 評判

 たかが手桶。されど手桶。

 事態は、ベイオがまだ目覚める前から始まっていた。

 正確には、母親が井戸へ水汲みに行った時から。

 某刑事ドラマの主人公なら「事件は井戸端会議じゃない! 現場で起きてるんだ!」とか言いそうだが、この場合は井戸端こそが現場だった。


「あら、ベイオ君のお母さん。早いのね」


 この呼び方は、特に他意はない。この国では男尊女卑が強く、家族以外から女性の名が呼ばれることはほとんどない。たいていが「誰それの娘・妻・母」と呼ばれる。

 それでも、夫の名前が出せないベイオの母親は、やはり一段低く見られていたのは確かだ。


「おはようございます」


 ベイオの母親は、この手の世間話が苦手だった。なので、井戸から水を汲む桶が空いたら、すぐに水を汲んでその場を離れようとした。


「あら、その手桶。変わってるわね?」


 外見上、継ぎ目の見えない円筒形。薄い板で、非常に軽い。

 実際には、取っ手を支える支柱で覆われた部分に、継ぎ目があるのだが。それでも、薄い板材を曲げて作られた本体部分は、確かに目を引く作りだ。


「はい、あの……息子が昨日、作ってくれまして」


 誤魔化しても仕方がないので、ありのままに話す。


「まぁ! まぁまぁまぁ! 凄いじゃないの、ベイオ君てば!」


 たちまち、事態は急展開。井戸端の女性たちが、こぞってベイオ製作の手桶を欲しがったのだ。それだけ、毎朝の水汲みは重労働だということだ。


 と言うわけで、目を覚ましたベイオは目を丸くした。


「十個も? そりゃ大変だな……」


 母親が井戸端で直接頼まれた分がその数だ。考えるまでもなく、さらに増えるだろう。

 まさしく、イノベーションによる需要創出だ。どこかの政治家が繰り返してたやつ。

 そうなると、昨日までのように一つ一つ手作りとは行かなくなる。

 特に、板材の確保だ。

 今回は、丸太を製材した時の屑材だからタダでもらえた。まだ七本あるが、三個分が足りない。

 それに、こっちは別な用途をベイオは考えていた。


 あの木こりのオジサン、まだ裏山にいるかな?


 端材があれば、また貰えるだろう。しかし、他人の為に作るのなら報酬を得ても良いだろうし、それなら木材にも対価を払うべきだ。


 ……でも、お金ってのが無いんだよなぁ。


 手元にないだけではない。何かを買った対価として、受け取ってもらえないのだ。相手が欲しい物がこちらにないと、取引が成り立たない。物々交換の最大の問題点だ。


 雑穀餅を噛みしめながら難しい顔をしていると、母親が心配そうに言った。


「作るの、大変だったら断ってもいいのよ?」


 案じるのはベイオのことばかり。母親なら当然だ。


「作るのは良いんだ。かわりに、何かもらえるかな?」


 そう返事すると、母親は少し考えてから言った。


「ベイオは、何が欲しいんだい?」


 そうか、そう考えれば早いかな。


「工具が欲しい。鋸とかノミとか、もうちょっと頑丈な小刀とか」


 昨日、目一杯酷使した小刀は、柄がガタつくようになってしまった。隙間に松脂を流し込んで固めたが、もうあんな使い方は出来ないだろう。


 しかし、母親は難しい顔だ。

 それも当然だ。この村には、工具を作れる者がいない。鋳掛屋がたまたま訪れるか、数日ごとに立ついちで、行商人が持ち込んでくれるのを待つしかない。


「じゃあ、作る間、借りるのでもいいんだけど」


 ベイオの言葉に、母親はようやく微笑んだ。


「それなら、何とかなりそうね」


 その時、戸口からケモミミが覗いた。ピコピコ動いてる。


「ベイオ、アルムちゃんが待ってるわよ」

「……ん」


 雑穀餅の残りを頬張って、ベイオは戸口に向かった。


 裏山に向かいながら、ベイオはアルムに手桶のことを話した。


「すごいだな、ベイオ! かわりに何もらうだ?」


 琥珀色の瞳をキラキラさせながらだが、口の端も涎でキラキラだ。アルムの中では、何か美味しい物だと決まっているのだろう。

 確かに、食べ物は物々交換で一番潰しがきく。保存できるものなら、なおさらだ。

 しかし、それでは貨幣経済が発達しない。


 ……何より、お金で物が買えないんじゃ、工業化なんて無理だし。


 食べきれないほど食料があっても腐らせるだけだ。そして、食料と交換に欲しいものなんて、この村にはどこにもない。

 おそらく、国中を探してもないだろう。


 前世の日本なら、いくらでもあった。工具マニアの日野少年は、ホームセンターの電動工具コーナーに入りびたりだったし、同級の友人たちはスマホやらゲーム機やらに散財していた。

 それらは全て、工業化の賜物だ。


 ただ切れる刃物では不十分。もっと良く切れて、今まで切れなかったものまで切れる。そんな刃物が出回るようになるのは、対価としての貨幣があればこそだ。

 何でも欲しい物と交換できる、引換券のようなもの。


 ……引換券?


「あ、なんだ。そうか、そうだよね」


 突然立ち止まって、そうつぶやいた。


「ベイオ、どうしただ?」


 アルムが目を丸くして見ている。

 それに対して、ベイオは満面の笑みで答えた。


「今日、作るものが決まったよ! 手伝ってくれる?」


 コクコクと頷いてくれた。


「ちょっと準備がいるから戻るよ。それから裏山に行こう」


 踵を返し、自宅へと向かう。

 正確には、自宅裏のアルムの小屋だが。

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