第43話 都落ち
時間は再び遡る。
決戦に敗れ、都に逃げ帰る途中のル・セイロン。
やがて日が暮れて星空を見上たとき、そこに見えたものに戦慄した。
「今、この時に
熒惑とは火星のこと。赤く明るいこの星は、この世界でも何かと不吉の予兆と扱われることが多い。
南斗とは南斗六星のことで、六つの明るい星が柄杓の形を成している。馴染のある星座で言えば射手座の上半分にあたる。
中つ国や麗国では、北斗七星と対になる星座として扱われる。中つ国の伝承では、北斗は死を司り、南斗は生を司るとされる。
そのため、南斗は朝廷のシンボルとされ、そこに血の色の螢惑、火星が入ることは、朝廷さらには国王に対する凶兆と言われていた。
妙なところで、ヒトは世界をまたいで同じことを考えるらしい。
ベイオが前世を生きた世界なら、単なる天文現象で済んだであろう。しかし、ここは魔法、いや呪法が存在する世界だ。予知夢が存在し、八卦の占いも老師クラスになると高確率で当たってしまう。
あながち、迷信と一笑にふすこともできないのだ。
都にたどり着くと、セイロンはその足で宮城に参内し、敗戦の報告を述べた。
議場に会した家臣たちの間には、激しい動揺が巻き起こった。誰もが一斉に喋り出し、その大半は敗戦の責任をセイロン一人に押し付け、死刑にすべしというものだった。
「お静かに願いますぞ、諸兄ら! 主上の面前を、なんと心得るか!」
断罪されているセイロンがたしなめたが、いくら宰相と言えども地に堕ちた者の声など誰も聞かなかった。それでも彼は訴えた。
「この首を落とせばこの国難が収まるというのなら、この場で切るがよい! だが、夜空を身よ。螢惑が南斗を犯して居る! この首ひとつで天の定めを覆せると申すのか!?」
と、そこに伝令が駆け込み、手にした書状を良く通る声で読み上げた。
「ディーボン軍第一陣総大将、ガフ・スガセイより。ただちに降伏し、麗国の国内通行を認めるならば良し。降伏せぬなら滅ぼすのみ」
今までの要求と同じである。
しかし、セイロンはこれを好機と捉え、国王に具申した。
「交渉だけでもするべきです。少しでも有利な条件に持ち込めるなら、それで良し。出来なくても、その間は時間が稼げます」
すると、議場の反対側から声が上がった。
「時間を稼いでどうする? 貴兄の処刑が遠のくだけであろう」
セイロンは声の方を睨んだ。政敵の一人、イル・サガンだった。
「時間こそ何より重要。再度決戦を挑むにしろ、どうするにしろ、準備には時間がかかる。貴兄こそ、中身のない反論のためだけの反論は慎むがよい」
サガンは返答に詰まって沈黙した。
ここで、国王リウ・ギウンは初めて言葉を発した。
「セイロンの言はもっともである。外部公司判事」
職名で呼ばれた高齢の官吏が、顔を上げた。外部公司判事とは、外務大臣にあたる。
「は、はい、主上」
「そちにディーボンとの会見を命じる」
外部公司判事は目を見開き、そのまま卒倒した。
そばにいたものが声をかけるが、返事がない。
「……死んでいる!」
脳卒中であった。
またしても騒然とする議場。
「お静かに願いますぞ!」
セイロンが一喝する。もはや野次を入れるものすらいなかった。
「主上。事、ここに至っては、どうか御決断を。北都に遷都し、中つ国に救援を求めましょう」
北都とは、この都の北西に位置する古い都市で、麗国の前にこの半島にあった国の首都であり、現在はピンアン道の道府となっている。日本に例えれば、京都や奈良に該当する。
再び、議場は怒号と号泣に満たされ、ほぼ全員が国王に遷都を思いとどまるよう懇願した。
……誰もかれもが、自分の地位と財産のことしか考えていないのか。
「遷都に反対する者は、自ら武器を取って戦うがよい!」
またもや、セイロンが一喝する。
なんとか騒ぎは収まったが、誰もが自分の身を案じて手一杯であることは疑問の余地は無かった。
「主上。是非とも御決断を」
「……よかろう」
国王の都落ち……いや、北都への行幸は、明朝の暁と決められた。
* * *
宰相セイロンの苦難は続いた。
明日にもディーボン軍が都に迫るという情報が洩れ、宮城にも市中にもパニックが広まったのだ。
あろうことか、気が付いたら宮城の衛士は一人残らず逃げ去っていた。そのため、都の治安は崩壊し、手の施しようもなかった。
そんな混乱の中で、国王の行幸……という名の逃亡は実施された。
日が昇ると、まるでこれからの道程の厳しさを示すかの如く、西の空には暗雲が垂れ込めていた。
国王と王妃、幼少の王子らは
一行が西大門をくぐってしばらく進んだのち、振り返ったセイロンが目にしたのは宮城に上がる火の手であった。
「なんたることだ……」
セイロンは言葉を失った。
燃えているのは書庫のあたりだ。この国の歴史そのものとも言える文献や記録が、灰燼に帰していく。
身を切るような悲しみが襲い掛かって来るが、今更引き返してもなにもできまい。
前方を見据え、歩を進める。頭上には、以前より黒さを増した雨雲が広がっていた。
じきに雨が降り出し、やがて大雨になった。一行は途中の駅舎で休息を取ったが、濡れそぼるセイロンが見回すと、侍従のかなりの者がいなくなっている。来た道を振り返ると、都へと戻ろうとする彼らがいた。
ぬかるんだ道に足を取られながら追いすがり、王の下に戻れと命じたが、誰一人従うことなく、彼らは歩み去ってしまった。
……王の人望の無さが、ここに現れたか。
頬を伝うものが雨か涙か、セイロンには分らなかった。
一行は都の西を流れる川に差し掛かったが、渡し船が足らないため、身分が下の者は乗る順番で争いになった。ここでもセイロンは自ら仲裁に入ったが、王族と同じ組で渡り終え船から降りた途端、その船は焼かれてしまった。
「何をするか! まだ半数が向こうにおるのだぞ!?」
詰問したが、火をつけた侍従は大臣の一人の名を上げて言った。
「敵の追っ手が渡れないようにしろ、と命じられました」
……減り続けた供のものが、さらに半数になってしまった。
それでもセイロンの苦難は終わらない。
夕刻、何とかその日の宿に定めておいた町にたどり着き、この地の郷司(行政官)が一行のために夕食を用意していた。ところが、朝から何も食べていなかった衛士の一団が厨房に押し入り、食事を奪おうとして鍋や窯をひっくり返してしまったのだ。
「たった一日の行軍でなんたることか!」
さすがに怒ったセイロンだが、衛士たちも郷司も既に逃げ去っていた。
その結果、国王以下全員、この夜は空腹を抱えて寝るしかなかった。
翌朝、護衛なしでは出発できないため、まずは今後の方策を国王の前で大臣たちと協議することになった。
「中つ国との国境間際まで赴き、それでも追っ手が迫るなら中つ国に入って救助を訴えるべきです」
発言したのは、船を焼けと命じた大臣だった。
「この意見、そちはどう思う」
国王は自分で判断せず、セイロンに問いかけて来た。
「この国の国土を一歩でも離れれば、この半島は我々の物とは言えなくなります」
「しかし、古来よりこの国は中つ国に服属しているではないか」
……国王が自ら、あからさまに属国であることを認めるとは。
ショックを隠せない彼は、必死で「それでは国を棄てることになります」と諫めた。
やがて、次に向かう先の郷司が、衛士数百名を連れて一行に合流したので、ようやく出立できることになった。
昼頃に一行は幕舎を設けて一休みし、都を出て初めて、やっとまともな食事をとることができた。
そして、夕刻には最初の目的地、カイソンに到着した。
しかし、待ち構えていたのは多数の農民で、号泣しながら口々に国王を弾劾するのだった。
特に、国王が政をないがしろにし、後宮に入り浸っていたことがやり玉に上がった。
その非難そのものは、セイロン自身が度々、国王に諫言していたことだった。しかし、今は彼らを制止する立場である。だが、農民の数は衛士より余りにも大きく、取り締まりは困難だった。
農民たちの直訴は深夜まで及び、セイロンは疲労の余り体に震えがくるほどだった。
……いや。これが農民の蜂起につながったら、この国は終る。
翌朝。
セイロンの発議で人事の刷新が行なわれた。
まずは大臣の一人、船を焼くように命じ、国王に国を棄てろと迫ったものが弾劾され、罷免となった。
しかし、セイロン自身も決戦での敗北を責められ、一度は宰相の地位を返上しようとしたが、これは国王に棄却された。
同じような責任追及が玉突きのように続き、この日は朝令暮改が相次いだ。
元来、無欲で温厚な気質であるセイロンにとっては、胃に穴が開く思いの一日であった。
しかし、その翌朝。
都からの思わぬ追撃があった。
軍勢ではなく、一人の使者によって。
上級官吏の青い朝服に身を包んだその男は、セイロンの前で名乗った。
「御高名は兼ねがね耳にしております、ル・セイロン殿」
その顔は、朝廷でも何度か見かけたことがある。
「私は元、監察使のリウ・ゾエン。わが師、シェン・ロンからの言伝がございます」
一礼して、微笑むと、彼は告げた。
「天の
……これは、最後通牒か。
セイロンの胃が限界を迎え、彼は吐血した。
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