第34話 海
「さて、追っ手がついておるのう」
朝、開口一番でシェン・ロンが皆に告げた。
先ほど占った卦で明らかだった。
「やはり。あのまま見逃すはずがありませんからね」
冷静なゾエン。
「このまま村に戻って大丈夫なんでしょうか?」
だが、エンジャは心配そうだ。
「うむ。おそらく、村には戻らぬ方が良いじゃろう」
老師は白い顎鬚をしごきながら言った。
「何しろ、わしらは天下晴れて全国指名手配じゃからの」
一人を除いて、一同はうなずいた。
「あの……それじゃこれからどうします?」
ヨンギョンにしてみれば、村に残した想い人のミンジャが気がかりだった。二度と会えないと思っていたのだが、村を出る時、物陰からこちらを伺ってるのを見てしまったのだ。
「お主とボムジンは面が割れておらぬからの。村に帰ることは可能じゃ」
ただ、あのヤンゴンが代官として戻れば、ベイオと親しい者として何をされるか分らないが。
それに、賤民に落された以上、ベイオたちと別れればヨンギョンは村に居場所が無くなる。
「俺はベイオと行くぜ。その方が面白そうだからな」
「うむ。それがいい」
ボムジンの言葉にイロンがうなずいた。
「じゃあ……俺も」
悩みながらも、ヨンギョンは同行を申し出た。
「それで、どちらに向かいましょう?」
ゾエンの言葉に、全員はシェン・ロンに目を向けた。
「うむ。いっその事、海を渡ろうかと思っておる」
顎鬚をしごきながら、老師は答えた。
「化外の地ですか……」
ゾエンは眉をひそめた。
化外の地とは、国王の威光が届かない野蛮な土地という意味だ。
そんな扱いだから、この半島の周辺には多数の島があるが、ほとんどは無人島だ。
「自ら望んで島流しとなれば、流石に追っては来んじゃろ」
そう言う老師に、ゾエンは疑問を投げかける。
「しかし、我々だけで無人島に住むというのも、難しいのでは。タンラ島まで行きますか?」
唯一、南西に位置する最大の島、タンラ島には人が住んでいる。ただ、彼らも「化外の民」として賤民扱いされているほどだ。
「それも一つの手じゃが、ちと遠いの」
半島の南西部に行くには、あの峠を戻るか、南端まで下って海岸沿いを行くしかない。そこからさらに、船でかなり行く必要がある。
「峠を戻るのは論外ですが、南回りだとどこかで食料を仕入れないと」
そうなると、問題は路銀だ。何しろ、銅銭をどれだけ詰んでも、ほとんどの村では何も買えないのだから。
ゾエンの言葉にうなずきつつ、シェン・ロンは答えた。
「いっその事、デム島に渡って、ディーボン国本土を目指すのも良いかもしれん」
ディーボン国をなす島々の内、一番半島に近いのがデム島だ。かなり大きくて、人口もそれなりにある。
「そんな……」
ファランは驚きを隠せなかった。
「あの国は、百年も戦争続きなのでは?」
弟子の言葉に微笑みながら、老師は答えた。
「最新の情報によると、どうやら争っていた諸勢力は統一され、戦争は終わったらしいのじゃ」
イロンがうなずいた。昨夜、老師と話しこんでいたのはそのことだった。長年、国々を巡り歩いた彼のところへは、自然とそうした情報や噂が集まる。
……へぇ。
ずっと空気だったベイオだが、この時、何か大事なことを思い出しそうになった。だが、どうしても出てこない。
そうして、一同は半島の南東にある大きな港町、ブソンを目指すことになった。デム島はそこから目と鼻の先。良く晴れた日には目視出来るほどだ。
「半年遅れだが、結局、そこに行くことになったか」
荷車を引きながら、ボムジンは呟いた。
「どんな所だい、ブソンてのは」
となりを進む荷車から、イロンが聞いた。
「港があるからな。魚は美味いぞ。あと、ディーボンからも色々珍しい物が来る」
「ほう。どんなのが?」
「まず、酒だな。澄み切った米の酒だ。酒精はそれほど強くないが、美味いぞ」
「うむ。魚と酒は楽しみだな」
「食い物以外だと、刃物だな。俺の愛用の斧は、そこで手に入れた奴だ」
「むぅ。それは聞いたことがある。向こうから来た鍛冶師からな」
「なるほど」
屈強なイロンが荷車に乗っているのは、背が低くてコンパスが短いせいだ。速足で荷車を引くボムジンの歩調に合わせるのは、少々キツイ。
しかし、獣人から見れば遅いので、一行の進む速度はボムジンに合わせられていた。
そのボムジンの荷車には、ベイオが乗っていた。彼はと言うと、イロンが持ってきた旋盤に夢中だった。重いので、一番丈夫なこの荷車に乗せ替えたのだ。
そして、ここなら持ち主に遠慮せず、いくらでも見て触ることができた。
「足踏みの上下運動を、このクランクで回転に変えるのか。ああっ、回転方向を変えるの、傘歯車じゃないか! どうやって削ったんだろう? 他の歯車も、歯が曲線だし……」
もうほとんど、エクスタシーの境地だった。
この世界に生まれて、初めて見る工学の片鱗だ。これらを考え出したというイロンの師匠、西の発明家に是非とも会いたかった。
……もう亡くなってしまったなんて。あと何十年か、早く生まれていれば。
一方、アルムは父親の引く荷車に乗り、隣のファランをチラチラと見ていた。ベイオが乗った荷車は食料などが満載で、一緒に乗れなくて残念だったのだが。
「なんでおまえ、こっちに乗るだ?」
どう対応していいか分らず、ぶっきらぼうにそう尋ねた。
「あなたと仲良くなりたくて」
ファランの言葉に、アルムはさらに混乱する。
「なんでだ? おらはおまえのこと――」
「嫌ったりすると、ベイオが悲しみますわよ?」
ぐっ、とアルムは言葉に詰まった。
「あなたはベイオが好き。わたくしもベイオが好き。ベイオは、あなたもわたくしも好き。なら、わたくしとあなたも仲良くしましょう」
なぜか、何も言い返せないアルムだった。
そんなアルムを見つめながら小走りに進む、金黒のしましまジュルム。
ふと、自分の両手に目を向ける。ゾエンを牢から出した時の「虎の爪」。鉄をも切り裂くそれは、純血種の自分たちだからこそ出来る技だと、「爺や」が言っていた。
だから自分は、アルムを嫁にする、と宣言したのだ。自分と彼女の間に子が生れれば、純血種が生れる可能性が高いのだ。
滅びかけている純血の獣人族にとっては、死活問題だった。
この世界にもメンデルの法則は生きている。
獣人の遺伝子は劣勢で、両親からその遺伝子を受け継がないと一部しか発現しない。しかし、遺伝子そのものは残る。
アルムはヒト族とのハーフだから不完全な発現だが、純血腫のジュルムと子供を作れば、五十パーセントの確率で純血種が生れる。その時、人虎族と人狼族という違いは関係ない。獣人としての遺伝子は同じ場所にあるので、どちらかが百パーセント受け継がれる。
「爺や」は言った。生れた子が虎と狼、どちらの特徴を持つかはどうでもいいと。純血であることが重要なのだと。それは納得できる。
納得いかないのは、「じゃあ、どうやったら子供が作れるのか?」と質問しても、「その時になったら教える」としか答えてくれない点だ。
獣人族の性教育は、意外と奥手らしい。
* * *
追っ手は馬に乗っているはずだが、ボムジンの速足と同じ程度のはずだ。そうでないと、馬が潰れてしまう。
なので、追い付かれる心配もなく旅は進み、旅程の最後となる小さな峠を越えようとしている。
そろそろ、春というより初夏に近づき、半島の南端なので気温も上がって来ていた。
汗を拭き拭き、坂を登るボムジン。
「ほれ、がんばれ」
シェン・ロンが呪法で頭上に水玉を出し、ボムジンにぶっかけた。
「おう、冷てぇ! 生き返るぜ!」
それに比べて、傍らで荷車を引く獣人二人は、涼しい顔だった。
羨ましいやら悔しいやら、ないわけではない。だが、気にしなければ気にならない程度のことだ。
そして、ようやく峠を越えた時。ブソンの港と、海が見えた。
「なんだ、ありゃあ?」
思わず、ボムジンは声を上げた。
誰もが、同じ思いだったろう。
その海は、水平線の彼方まで、白い点で埋め尽くされていたのだ。
いや。
ベイオだけは、わかっていた。
違う、思い出してしまったのだ。
あの白い点は全て、軍船の帆。
……戦乱の時代。天下統一。ということはつまり。
この世界での、「秀吉の唐入り」である。
ディーボン国の戦国時代を勝ち抜いた猛者たちが、この麗国に攻め込んできたのだ。
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