第113話 名前の力

 技術学校の研究室で、ベイオは一心不乱に彫刻刀を振るっていた。素材は柘植つげの板。櫛などの細工物に使う、硬い木材だ。

 その横に積み上げた紙を、開けはなった窓からの夏風が吹き散らす。

「ああ……ごめんアルム。拾ってくれる?」

「いいだよ」

 そばで見ていたアルムが、散らばった紙を拾い集め、ベイオの横に置いた。

「でも、これって何になるだ?」

 習字の半紙のような薄手の紙に、文字が碁盤の目のように書かれている。これを葉書大の板に貼り付けて、白いところを掘っているのだが。

「字が、あべこべだよ?」

 わざわざ裏返して貼ってあるので、左右逆の鏡文字になっている。

「活字だよ。文字のハンコさ」

「ふーん」

 果たしてわかっているのかどうか。

 それでも、アルムの興味は木を彫る方に向かっていた。

「やってみる?」

「うん!」

 ベイオから彫刻刀を受け取ると、アルムは猛然と彫り始めた。柘植は硬いだけあって、ベイオの手はそろそろ限界だったから、手伝いはとてもありがたい。

「あまり深く掘らなくてもいいからね。文字の線が崩れないように注意して」

「わかっただ!」

 今までにも、顔のある陶器とか、謎の木彫り人形とか、広場の天気予報板に描いた老師の絵とか。アルムにはやはり、工芸の才能がありそうだ。


 彫る方はアルムに任せて、ベイオは思案にくれた。


 ……大量生産こそが工業化。なんだけど。


 紡績や織物と違い、活字は手間がかかる。量産そのものは鋳造で出来るが、問題は鋳型だ。これだけは手作業で彫るしかない。しかし、木彫りの型では融けた金属で焼けてしまうし、掘り下げた深さが均一でないと、文字の高さがきれいにそろわない。

 そして、鋳型の数も増やさないと、鋳造でも量産はむずかしい。


 ……粘土に型押しして焼いたら?


 そう考えて、判子と同じように彫り始めてみた。文字の部分が凸になるように。


「彫り終わっただよ!」

 アルムが得意気に木の板を掲げて見せた。手始めに用意した、表音文字の最初の二十字が浮き彫りになっている。

「ありがとう。きれいに彫れたね」

 ケモ耳が覗く赤毛をなでなで。

 嬉しくなったアルムの、フサフサの尻尾がパタパタ。


「じゃ、さっそく試してみよう」

 別な板の上に粘土を平らに伸ばして、木彫りの板を押し付ける。文字の形に凹んだ型がとれた。

「あとは、アルムのお父さんに頼もう」

「おとうなら窯におるだよ」

 アルム父は技術学校の裏庭に小型の窯を作り、この春から生徒たちに陶工を教えている。


 校舎になってる館の裏手に回ると、アルム父が窯から作品を取り出しているところだった。昼下がりの日差しが器に照り輝やく。

 以前は獣人に許されたのは素焼きだけだったが、ベイオが許可したので釉薬うわぐすりも使えるようになった。今作っているのは、釉薬で艶を得た陶器だ。


 ベイオが用件を伝えると、アルム父はひざまずいて答えた。

「わかりもうした。この鋳型、命に変えても必ず焼き上げます」

 いや、命かけなくていいから。

 そう内心でツッコミながらも、粘土板を渡した。

「素焼きでいいからね」

 釉薬が融けて流れて、鋳型が潰れてしまっては元も子もない。その点を念押しして、ベイオは引き上げた。

 アルムもついてくるかと思ったが、父親の作品を熱心に見つめていた。この分なら、父親の仕事を継ぐのもいいかもしれない。

 去り際に振り替えると、父親にあれこれ質問しているようだった。


 次にベイオが向かったのは、イロンのところだ。ちょうど、金属加工の実習が終わった時らしく、教室からは生徒たちがわらわらと出てく来ていた。ベイオに挨拶する彼らの後から、身長より肩幅の方がある頑健な姿が現れた。


「よう、ベイオ。講義以外では久しぶりだな。また何か作ってんのか?」

 言われてみて、研究室にこもりきりだったことに気づく。

「うん、その事で相談があるんだ」

「そりゃ面白そうだな」

 今まで、ベイオから持ちかけられた仕事は、どれも奇想天外なものだった。


「イロンさんの部屋でいい?」

「おう。とっ散らかってるけどな」

 自分の工房を構えているイロンだが、この学校にも研究室を与えられている。

「うわ……」

 扉を開けると、おびただしい金属や鉱石の塊が、足の踏み場もなく散乱していた。その中をイロンは器用にヒョイヒョイと歩いて作業台の椅子にたどり着いたが、ベイオは踏まないようにおっかなびっくりだった。

 それでも、何とかイロンの隣の椅子に腰かける。

「で、相談ってのは何でぇ?」

 茶色い瞳が爛々らんらんと燃え盛ってる。やや気圧されながら、ベイオは答えた。

「金属の名前なんだ」

 この世界で、の名前だ。


 活字を鋳造するなら、低い温度で融ける必要がある。加えて、硬さも必要だ。紙に押し付けたときに潰れたり、すぐにすり減っては使い物にならない。

 前世の知識で、活字に使う金属は鉛・錫・アンチモンの合金だと言うことまではわかる。

 この内、鉛は身近にあるからいい。残りの二つが問題だ。この世界での名前が分からないと、手に入れることすらできないのだ。

「二つあるの。一つは白銀色で、鉛みたく柔らかくて、低い温度で融けるんだ」

 錫の特徴を告げる。

「ふーむ。それだと、これとかこれかな?」

 辺りの金属塊を拾い上げて、作業台にどんどん並べていく。その中に純銀の塊があるのを見て、さすがにベイオは呆れた。

「沢山あるね」

 さらに絞り込める特徴と言えば……。

「そうだ、曲げると音がするんだ!」

 純度の高い錫は結晶構造になっていて、これが変形するときに特有の亀裂音を発する。「錫鳴き」と呼ばれる現象だ。

「ほう。それなら鳴銀で決まりだな」


 ……そのまんまだった。


 ちょっと拍子抜けするベイオに、イロンは白銀色の細い金属棒を渡した。

「曲げてみな」

 言われるまま、棒を曲げてみる。ベイオの手の中で、棒からはキリキリ、キリキリと音が発せられた。

「もう一つなんだけど……」

 次が難問だった。アンチモン。

「銀色ですごく硬いんだ」

 実習で使ったことはないから、どうしても曖昧になる。しかし、活字の合金に硬さを与える、重要な素材だ。

「それだと、向こう側全部だな」

 イロンは部屋の半分ほどを手で示した。意外にも、散らばる金属や鉱石の塊は、イロンの基準で分類されているらしい。


「あ……」

 思い出した。実習で使わなかった理由。

「毒性が強いんだ」

 ベイオの言葉に、イロンは真っ黒でモジャモジャの顎髭をしごいた。

「大抵の金属は、大なり小なり毒があるからな……」

 イロンの返事に、ベイオは頭を抱えた。化学の知識不足が、こんなところで足を引っ張るとは。

「なあ、ベイオ」

 そんな彼に、助けの手が延べられた。

「何に使いたいのか教えてくれれば、こっちが見繕えるぜ」


 ……そうだった。


 自分の知識にばかり頼らず、この世界の仲間を頼るべきだった。もっと高度なレベルで。

 ベイオは話した。印刷の事、活字の事を。


「なるほど、活字合金を作りたいのか」

 イロンが、そのものズバリの答えを与えてくれた。

「それなら残りの一つは、殺僧石で決まりだな」

 なんとも物騒な名前だ。イロンによれば、アンチモンを豚に与えたら虫下しになり肥え太ったのに、栄養失調の修行僧に与えたら死んでしまったのが由来だとか。


 ……まさか、アンチモンって、アンチ・モンクだったりして?


 今となっては確かめるすべはないのだが。

 しかし。


 ……名前の力って、凄いな。


 名前さえ分かれば、探し出すことも扱うこともできる。ファンタジー世界に限らぬ、真理だと言える。


 それはさておき、イロンは活字合金としてのの配合率まで知っていた。

「俺が向こうを出る数年前から、印刷が盛んになってな」

 思いもかけぬ情報に、ベイオは舞い上がった。

「じゃあ、西の果ての国々でほ、活字の鋳型をどうやって作ったの?」

「硬い柘植つげに親型を彫って、薄い銅板に押し付けてたな」

「そっか……」

 前世のアルファベットに当たる文字だ。画数が少なければそれでも充分だろうが、こちらの表音文字ですら、そのやり方では潰れてしまうに違いない。

 しかし、実際に合金が作れれば、大きな前進だ。

「イロンさん、この活字合金、作ってもらえます?」

「もちろん。どれくらい要る?」

「まずは、一キロぐらい」

 それだけあれば、短い文書なら組めるだけの活字が作れるはずだ。

「しかし、ベイオ。おめぇ、活字合金の組成を何で知ってるんだ?」

「……なんとなく」

 今のところは、歯切れ悪く誤魔化すしかなかった。


 翌日、素焼きの鋳型が焼き上がった。アルム父が精魂込めてくれただけあって、見事な仕上がりだった。

 そして、アルムまで誇らしげだった。彼女は既に、残りの表音文字の母型も彫り始めてくれている。


 そのさらに数日後、活字合金の材料が揃った。

「じゃあ、作るぜ」

「うん、お願いします」

 場所は焼き窯のある中庭。

 イロンが炉の火を起こし、黒鉛製の坩堝るつぼをかける。その中にあるのは、

鉛と錫・アンチモン――こちらの名前では鳴銀・殺僧石――の素材。

 少しふいごで風を送ると、たちまち素材の金属は融けあい、さらさらとした粘りけのない銀色の液体となった。

 それを、素焼きの鋳型にゆっくりと注ぐ。内部に気泡などが入らないように。

 そして、ゆっくりと冷ます。急いで冷やせば亀裂などが入りかねない。


 手に取れるほどまで冷えたら、完成。

 そのはずだった。


 が、すんなりと活字が鋳型から外れない。どんなに表面をきれいにしても、素焼きでは表面がざらつくので、鋳型を壊さないと外れないのだ。これでは鋳型は使い捨てとなってしまう。

「やだ! おとうが焼いたの、壊しちゃやだ!」

 アルムが泣きながら、珍しく駄々をこねる。父の作品には思い入れがある上に、母型を彫ったのはアルムだ。共同作品のように思えるのだろう。

 そんなアルムを父親は抱き締め、何事か獣人語で語りかける。しばらくすると、ようやく彼女も落ち着いたようだが、まだしゃくり上げてる。


 そんな皆の見守る中、イロンのハンマーで鋳型は壊され、鈍色に輝く活字の字面があらわになった。

 壊してしまったが、鋳型の精度は高く、試しに取り出した活字に墨を塗って紙に押し付けたら、くっきりと文字が残った。

 しかし。毎回、鋳型を作って壊していたのでは、量産には向かない。


 ……表面が滑らかで、丈夫な鋳型……やっぱり金属か。表面だけならメッキで充分なのに。


 ぞわり。


 ……あ。


 思い付いてしまった。この世界では、彼以外の誰も思い付かないだろう、決定的なアイディアを。

 それだからこそ、ベイオは腹を決めなければならなかった。

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