第114話 葛藤

「のう、ベイオ。そろそろこれの仕組み

を明かしてもらえんかの」

 目の前のかめの中を覗きながら、シェン老師は呟いた。

 瓶を満たした鮮やかな青い液体の中には、二枚の板が吊るされており、そこから細かい泡が生じている。

「俺からも頼むぜ。今まで何度もおめぇにゃ驚かされたが、さすがにこれは……」

 イロンも、老師が覗きこむ瓶の中を指差して頭を振る。

「なんつーか、理解を越えてる」

 ため息をつくと、黒々とした顎髭をガシガシとしごき、室内を見回した。


 ベイオの研究室は、この半月ほどで大きく様変わりした。工作機械の大半は運び出され、大きな棚にさまざまな試薬の入った壺が並ぶ。作業台の上は、それらを粉にする乳鉢や、水に溶かしたり混ぜ合わせるための器が埋め尽くしている。その一角を占めるのは、ベイオが試験管と呼ぶ、貴重なガラスの細長い器だ。

 それらを眺めながら、イロンは言葉をついだ。

「おめぇが青い結晶が欲しいと言うから、国中をあちこち探したぜ」

 彼だけでなく、門下の弟子や学生たちにも手伝わせて。そうして集めたものが、棚に並ぶ試薬の壺だった。

 髭から手を離し、瓶の隣に置かれた壺を指差す。

「結局、銅山で見つけた銅水晶が当りだったがな」

 壺の中には、青いザラメ大の結晶が半分ほどまで入っていた。平行四辺形の形をしたものが目立つ。これらは銅の鉱脈から水が滲み出したところで見られるものだ。

「けどよ、これがどう働いてこうなってるのかは、さっぱりわからねえ。おめえに聞いても、はぐらかされるばかりで、ちと残念に思うわ」


「……ごめんなさい」

 ベイオは頭を下げた。

 瓶の中で起きてる反応。これを二人に説明できなかった理由は二つ。


「うまく説明できる自信がなかったんだ」

 化学反応を正確に説明しようとすれば、原子や分子のような基礎知識が前提となる。これまで、技術学校で教えてきたレベルをはるかに越える、膨大な知識だ。

 そして、もうひとつの理由。

 なぜ、その知識を持っているか。この世界では知り得ぬはずの、科学・工学の知識を。

 これ以上、黙っていることはできない。


 ……でもそうしたらお母さんが。


 転生の秘密を明かすのなら、真っ先に伝えるべきなのは母親だ。今まで苦労して育ててくれた人に、隠しだてはできない。

 それが、どんなに残酷な事であっても。


 ……今夜にでも、全部、話そう。


「まあいいさ、それより教えてくれ。この瓶の中では、一体何が起きてるんだ?」

 イロンの言葉に、老師もうなずいた。

「この中の片方の銅板、ずいぶん薄くなったのぅ。銅が酸に溶けるのは知っておったが、この青い水は違うようじゃし。……何より」

 老師は、すがめた目でもう一枚の板を睨んだ。

「こいつが日に日に太っていくのが解せん」

 活字の鋳型となるはずの、元は黒かった板だ。今その表面は銅色に変わり、その厚さが増している。

 ようするに、銅メッキだ。


「それは……電気の力です」

 言葉を選びつつ、ベイオは説明を試みた。

「その二枚の銅板を吊り下げているのは電線で、庭にある風力発電機につながってます」

「ふむ」

 老師は瓶の中の青い水を指差す。

「すると、この水は電気を通すのじゃな?」

 ベイオがうなずくと、イロンが畳み掛けてきた。

「じゃあ何か? その電気の流れにのって、銅がこっちの板からもう一枚に移ったのか?」

 ベイオは息を飲んだ。

「そ、そうです」

 思わず、声が震えた。


 この世界では銅水晶と呼ばれる、銅の化合物である硫酸銅。この青い結晶を溶かした水に通電することで、陽極から溶け出した銅が、陰極側に析出する。これが電気メッキだ。

 しかし、こちらでは電気すら謎の力だ。分かるはずがないと思って、説明は諦めていたのだが……。

「なんじゃ、ベイオ。泣いとるのか?」

 老師に言われて、頬をぬぐう。しばらく止まりそうにない。

「理解してもらえなかったらどうしよう、と心配で……そうなったら僕、独りぼっちだから……」

 パン、とイロンが背中を叩いた。

「俺の故郷じゃあるまいし、異端審問なんてやるもんか!」


 ……やっぱり、あったのか。


 イロンの故郷、大陸の西の果ての国々。火あぶりにされたり、裁判で無理矢理「地球は動かない」とか言わされたのだろうか。

 それなのに、二人はわずかな説明で、ほとんど正解にたどり着いたのた。イロンも老師も、その長い一生を観察と探求に費やして来た。地頭じあたまというか、基礎的な「考える力」は、何ら劣らない。


「ありがとう、イロンさん、老師さま……」

 この二人になら、前世の知識でも忌憚なく話し合える。そう確信が持てた。


 気持ちが前向きになったベイオは、手を伸ばして壁に取り付けられたハンドルを回した。そして窓から庭の風車を見上げ、その回転軸が発電機から重りの巻き上げ機に切り替わったことを確認する。


「これは、もう充分な厚さになりました」

 そう言って、ベイオは導線でぶら下げていた二枚の板を引き上げた。すっかり薄くなった陽極の銅板を導線からはずし、新しい銅板を繋ぐ。

 そして陰極側、鋳型となる方の板もはずし、次の鋳型を用意する。


 まず、蝋を湯煎で融かし、松脂と黒鉛の粉末を加えてよく混ぜる。これを木枠の中に流し込み、まだ軟らかいうちに次の木彫りの型を押し付ける。黒い蝋の上に、文字の形の刻印が押された。

 黒鉛は炭素で、電気を通す。蝋板に導線を繋ぎ、新しい銅板と共に硫酸銅の水溶液に浸した。

 そして、壁のハンドルを逆に回し、風力発電機を起動して電気を流す。


「それで銅が付くってのが驚きだよな」

 つぶやくイロンの目の前で、黒い表面が赤銅色の膜に覆われていく。


「次はこっち。うまく剥がれるかな?」

 先ほど引き上げた方の板を取り上げる。木枠をはずすと黒い蝋が出てきた。こちらには銅は付いていない。銅に覆われた面を上にして鍋にいれて、部屋の隅の炉にかける。

 やがて蝋が融けると、薄いが滑らかな鋳型が残った。


「出来た!」

 さっきまでの不安は一気に吹き飛んだ。

 鍋を降ろして坩堝るつぼを火にかけ、そこに鉛の粒を大さじで何杯か入れる。ほどなく粒は融け、文字どおり鉛色の液体へ。

 補強のための金属枠に鋳型をはめ、その隙間に融けた鉛を流し込む。鉛が冷えて固まれば、鋳型の出来上がりだ。薄い鋳型を鉛で裏打ちしたわけだ。


 イロンが肩に手を置いた。

「ついに完成だな。試してみるのか?」

「もちろん!」

 ベイオの返事も明るい。


 今度はイロンが手を貸してくれた。鉛、錫、アンチモンの粉末を天秤で正確に計って混ぜ合わせ、坩堝るつぼで融かす。この合金もイロンが教えてくれたもので、鉛より低い三百度で融け、固まると非常に硬くなる。まさに活字向きの合金だ。


 その間に、ベイオは鋳型を準備する。活字の大きさに升目が組まれた箱に、出来たばかりの鋳型を嵌め込む。そして、鋳型の方を下にして、石盤の上に置いた。


「準備できたよ、イロンさん」 


 イロンはうなずくと、そこに融かした合金を流し込んだ。

 しばらく冷えるのを待ち、慎重に箱を持ち上げ、ひっくり返す。鋳型をはずすと、左右が反対の文字が現れた。鋳型も痛んでいない。

 金属活字の完成だ。

 早速、その頭に墨を付けて、手近な紙に押してみる。

 表音文字の「ア」が、墨の色も鮮やかに押された。


「やったな、ベイオ」

 髭面をくしゃくしゃにして、イロンはベイオの頭をグシャグシャとなで回した。

「イロンさんのおかげだよ」

 乱れた髪を直しながら、ベイオは答えた。


「しかし、これは偉いことじゃな」 

 紙に押された文字をしげしげと見つめながら、老師はつぶやいた。

 印刷により書物が普及すれば、身分に関係なく誰もが学べるようになる。今までは貴族や官吏が「これが決まりだ」と言えば、民は従うしかなかった。だが、学んでいれば反論できるのだ。

「これでは、『どうせわかるまい』などと、いい加減なことは言えんな」

 面白い時代になったものだと、老師はほくそえんだ。


* * *


 その日の内に、都の北側を流れる川のほとり、織物工場の隣に、新たに水車小屋を建設し、大型の発電機が設置されることが決まった。活字工房である。

 そのさらに隣には、印刷工房が建てられる予定だ。ここでやがて、睦教と呪教の経典が、読み書き算術の教本が、大量に印刷されることになるのだった。


 しかし、そうしたら大望の前に、ベイオにはやらなければならないことがあった。


 母親に、真実を告げる。

 それは、今までの関係が崩れ去ることを意味するかも知れなかった。


 ……でも、伝えなくちゃ。


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