第112話 活字の力

「お主はまた、恐ろしいことを平然と申すのぅ」

 老師は頭を抱えた。髪の毛が残っていたら、掻きむしるところだ。

 厳格な階級制度をもたらす呪教と、万民の平等を説いたとされる睦教、正に水と油と言えた。


「大変なのはわかります。まるで逆のことを言ってますからね」

 でも、とベイオは続けた。

「卵の黄身をいれたら、酢と油も良く混ざるじゃないですか」

「……まよねえず、じゃったか」

 卵という乳化剤を加えることで、酢と油が混ざり合い、マヨネーズとなる。


 前世の日本と比べると、さすがにこの国の料理はバリエーションが乏しい。そこで、たまたま母親の手伝いで作り方を知っていたマヨネーズを試したところ、意外と好評だったのだ。

 車を引く父の隣で、目を輝かせたアルムが振り返った。

「またマヨネーズ作る? 食べるだ!」

「うん、卵が手に入ったらね」

 穀物の輸入がうまくいったお陰で、養鶏も少しずつ増えている。だが、病人や孤児たちを優先しているので、皇帝と言えど毎日は食べられない。


「しかし、呪教と睦教にとっての卵とは、なんじゃろうな?」

 老師が話を戻すと、ベイオは手を伸ばしてその禿頭を撫でた。

「これですよ、これ」

 サッと首を反らし、老師は声をあげた。

「まさか、卵のようにかち割ると!?」

 ベイオは苦笑した。

「いい加減、卵から離れましょうよ」

 空を見上げる。車は木立の中を進み、夏空には入道雲。


「帰る頃には夕立になりそうですね」

「そうじゃの。朝、占った通りじゃな」

「老師さまの天気予報、良く当たるので都で評判ですよ」

 昨年の台風襲来は、それで予知できたのだった。それ以来、老師の天気予報が毎日、都の広場の掲示板に貼り出されるようになった。文字が読めなくてもわかるように、図と記号で。

 その横に、アルムがデフォルメした老師の絵も描いたので、今ではすっかり「お天気爺」のあだ名が定着してしまった。


「そんなこの国一番の呪教の大賢者が、さらに睦教を学んで帰依すれば、違和感なく受け入れられるんじゃないですか?」


 いきなりの無茶ぶりに、老師は頭を抱えた。物心ついてから学び続けてきた呪教だ。自分の全てとも言える。今さら他の教えに帰依するなど……。


 ……じゃが。


 同時に学者の血が騒ぐ。二百年も前に廃れて、ほとんど文献すら残っていない宗教だ。その経典を学べるというなら、願ってもないことだった。どのような知識が埋もれているか、激しい渇望を感じる。

 今までなら、官吏の目が光っていて叶うはずのないことだった。しかし、今は違う。

 隣で屈託なく微笑む少年を見下ろす。皇帝の命とあらば、表立って逆らう官吏など、いるわけがない。


「良かろう、睦教の経典が見つかれば、片端から読破してしんぜよう。じゃが、帰依するかどうかは、そのあとじゃ」

 老師の返事に、ベイオは満面の笑みで答えた。


* * *


「皇帝の名の元に命ずる。今後、帝国内では呪教以外の学問も自由を保障する」

 突然のみことのりに当惑するものも多かったが、以前からも技術学校など皇帝直属の事業があったため、混乱は見られなかった。


 このベイオの命により、国中に埋もれていた古文書が集められた。その中には、かなりの数の睦教の経典が含まれていた。

 そうなるともう、知的好奇心の塊である老師は止まらない。部屋にこもると朝から晩まで読みふけるのだった。


 一方ベイオの方は、朝議に講義に機械の改良にと、相変わらず多忙な毎日だった。それでも暇を見つけては老師の部屋を訪れ、日に日に深まる睦教の話を聞く。

「呪教も睦教も、徳を積むという点においては、同じ方向を向いておると言えるのじゃが、そのために行う『正しい生き方』というのが違っての……」


 それと並行して、読み散らかした経典を整理整頓するのもベイオだ。

 どうも学者としての老師の知性は、この手の事務的なことには向かわないらしい。前世の工業高校で「乱雑は怪我のもと」と厳しく教えられたベイオとは正反対だ。

 学者と技術者の違いかもしれない。


 と、二冊の経典を手にしたベイオの動きが止まった。食い入るように、二冊を見比べる。


「老師さま、この二冊……」

 ベイオはつぶやくが、話しに夢中な老師は気づかない。

「……そこでじゃ、同じ徳と言っても睦教と呪教では――」


「この二冊、おんなじです!」

 ベイオの強い声に、老師はやっと手元の経文から目を上げた。

「うむ。昔は写経も盛んじゃったからのぅ」

「いえ、そうじゃなくて」

 興奮気味に、ベイオは二冊を並べて見せた。

「この二冊、文字の形も並びも、全く同じなんですよ!」

「……確かにそうじゃな」

 経典はどれも、一字一字丁寧に写経されている。しかし、その二冊は同じすぎた。


 まるで印刷したように。


「かつて中つ国から、『活字』というものがこの国にもたらされたそうじゃ」

 さらりと老師は言ってのけた。

「それって、一文字ずつハンコを作って、並べて紙に押すんですね?」

「さすがに、お主は理解が早いのぅ」

 半ばあきれ顔の老師。


 前世では、グーテンベルグが活版印刷を起こしたのが十五世紀。ベイオの見立てでは、今世なら百年ほど前となる。

 しかし、紀元前に紙の量産に成功していた東洋では、さらに早く十二世紀ごろに発明されていた。しかし、漢字は文字数が多いため、手彫りの活字では限界があった。

 それはこちらの世界も同じで、ひとたびは活字を金属で鋳造するところまで発展した。それで印刷されたものが、ベイオの手にする二冊の経典だ。

 しかし、広く普及することなく途絶えてしまったという。


「その金属活字、どこにあるんです?」

「ほとんど残っておらんじゃろう。この国で印刷を行っていたのは睦教の寺院じゃったからな。呪教が入って来た時に、ほとんどの寺は焼かれたのじゃ。その時に活字も、多数の書物もな」


 老師の言葉に、ベイオは天井を見上げてため息をついた。


 ……まただ。養蚕と同じ。


 活版印刷も金属活字も、失われた技術だ。


「書物が必要なのは呪教も同じじゃ。しかし、広く大衆に教えを広げようとした睦教とは逆に、呪教は科挙を受けるための学問として定着したからのう」

 呪教にとっては、印刷して部数を増やすより、手書きの写本で高価な書物にして置く方が都合が良かったのだ。入手できるのは富裕層に限られ、そこから科挙に合格して官吏となり、やがて上民という身分が生れた。

 そうして、厳格な身分制度の社会が出来上がる。


「呪教の変質はそこから始まったのじゃな」

 と、老師はため息をついた。


「……だったら、逆をやればいいんだよね?」

 ベイオはつぶやいた。

「逆?」

 老師は顔を上げた。

 そこに見たのは、新しいものを作ろうとするときの決意に満ちた、ベイオの顔だった。


「印刷技術を復活させ、睦教や呪教の経典をはじめとした書物を、安く大量に印刷していく。そうして誰でも読めるようにする一方で、科挙制度も見直して、経典の丸暗記ではなく、理解の深さや応用、そして算術などの実学も重視しなくちゃ」

 一言一言、自分に言い聞かせるようにベイオは語る。


 教育こそが、国家百年の計。すでに技術学校から多数の職人が生れているが、学問の普及こそが工業化の基礎となる。読み書きができなければ、技術やノウハウは継承できないのだから。


 まずは、そのための活字だ。この世界の漢字である辰字。何千もある文字の活字を何百本も作らなければ、版組すらできない。


「活字を大量に作らないと……何百万本も」


 とてつもない数字を耳にして、またしても老師は戦慄を覚えた。

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