第75話 幕間2

 土曜日の朝。好んで一限目をとる学生は少ないので、キャンパスは人影もまばらだ。

 つまり、落ち着いて仕事ができる。


 研究室に着くと、院生の一人がパソコンに向かっていた。

「お早う、長谷川くん」

「ふぁ……お早うございます、福島先生」

 体重で椅子を軋ませ、巨体がこちらを向く。ボサボサの髪に充血した眼。

「また徹夜かい? 体を壊すぞ」

「いやー、例の誤差逆伝搬のバグ、結局夜中まで取れなくて。で、終電逃したところでこの記事見つけたら、もう眠れなくなっちゃったンスよ」

 画面を指差すので、ブラウザの文章をざっと斜め読みする。最新の数学理論を、やや一般向けに紹介した内容のようだ。


「宇宙際タイヒミューラー理論か。名前は聞いてたが」

「なんかこう、オタク心をくすぐる中二病ぽさが堪らないスね」


 オタク心か。

 この長谷川くん、こう見えて意外と優秀なのだが、アニメや漫画にかける情熱の半分でも研究に向けてくれれば、と常々思う。

 画面の文章に注意を向ける。


「この理論でABC予想が解決すると書いてあるが、もし本当なら凄い事になりそうだな」

 とある計算条件を満たす、ABCの三つの整数の組み合わせは、無限にあるわけではなく、数に限りがあるのではないか。これがABC予想だ。


「それが解けたら、数学理論の難問が一気に解決とか、ラスボス並みですね。まー、何に役立つのかわからんスけど」

「呑気なもんだな。下手をすると、今までの暗号理論が一気に崩壊するぞ」

 今の暗号は、力業では解読するのに無限とも言える時間がかかるから、成り立っている。それがあっさり解けてしまうとなれば、全く新しい暗号が必要になる。

 それを作るにも、この理論を応用するしかない。


「あ……」

 彼も気づいたらしい。いや、本能的に感づいてはいたのだろう。私のやったのは、気づいていることに気づかせただけた。


「……てことは、これをうちの機械学習の評価関数に使ったら、なんて妄想しちゃったり――」

「長谷川くん」

 少々肉付きの良すぎる肩に手を置く。

「やりたまえ」

「え?」

 鳩に豆鉄砲という顔の彼に、畳み掛ける。

「理論の方は任せた。論文のテーマにはもってこいじゃないか!」

「えええ!?」

 のけぞった彼の尻の下で、椅子がギシッと悲鳴をあげた。

「これ、まだ世界でも十人くらいしか理解してないんですよ?」

「遠慮は要らんよ、十一人目になりたまえ」

 いつの時代でも、若者に必要なのは、挑戦すべき課題だ。私のような老兵にできるのは、その尻を叩くこと。


 その時、ブラウザにもうひとつタブが開かれてるのに気づいた。

「あ、それは」

 何やら焦る長谷川青年を押し退け、クリックする。

「ほう。小説投稿サイトか」

 アニメタッチのイラストと、短文に埋め尽くされた画面が表示された。

「ふむふむ。『魔王に転生したからケモミミ少女奴隷を集めてみた』?」

 短文はどうやら、小説のタイトルらしい。タイトルだけでどんな話かわかる。


「あの、えと、それはちょっと息抜きに……」

 マウスを奪おうと必死な若者を押さえつつ、スクロールさせる。

「『異世界ハーレム助けた女の子は全部俺の嫁』か」

 どれも、「性描写あり」の注記がある。画面の上部には「ハセガーさんのブックマーク」と出ていた。

「中々良い趣味をしてるね、長谷川くん」

「いや、あの」

 脂汗を滲ませる長谷川青年。男の子だな。


 と、そこへもう一人の院生が入ってきたので、私は笑顔で挨拶した。

「お早う、水島くん」

 彼女は、この人工知能研究室の紅一点だ。

「お早うございます、先生。あ、ハセガー、また徹夜ね?」

「どうやら、一晩中こんなサイトを見てたらしい」

 手招きすると、「キャー、もしかしてエッチな動画?」とか言いながらデスクを回り込んでくる。

 それに対して、椅子の上の彼の方は、死刑宣告でも受けたかのように真っ青になり、硬直している。

 ちょっと可哀想なので、彼女の視界に入る前に、小説サイトのタブは閉じてやった。代わりに表示されたのは、先ほどの最新数学のサイト。


「へー、意外と真面目なのね。私には難しすぎるわ」

 画面から顔をあげ、彼女は椅子の上の青年に微笑む。

 朝日のような笑顔を浴びて、死にかけていた彼の体が見る見るうちに生き返っていく。

 一言、添えておこう。

「長谷川くんは、これを修士論文のテーマにしたいそうだ」

「凄いじゃん、ハセガー!」

 思わぬ称賛の言葉に、青年はうち震えた。

「はい、頑張りまふ……」


* * *


 夜、帰宅するとまずパソコンを起動した。ブラウザを開き、例の小説投稿サイトの名称を検索エンジンに打ち込む。


「せっかく書いたのだから、誰かに読んでもらいたいものだな」

 誰に言うともなく呟き、適当なペンネームでアカウントを登録する。そしてエディタを開くと、書きためてあった文章を読み出し、画面にコピペした。


「ふむ。公開するには、タイトルや粗筋なども必要なのか」

 しばし考えて、いくつかエディタに書き出してみる。

「よし、これでいくか」

 投稿した小説は、公開する日時を選べるらしい。時計を見ると真夜中だ。週末とは言え、こんな時間に公開してもたいして目立たないだろう。朝の八時に設定し、パソコンをシャットダウンして寝床に入った。


 翌、日曜日。昼近くに起き出してサイトを覗くと、いくつかコメントが付いていた。

 異世界物と言うのは定番のジャンルらしく、かなり人気があるようだ。自分の書いたものに「面白い」と言ってもらえるのは嬉しい。コメントには返信が書けるので、お礼の言葉を添えた。


 が、中には厳しい意見もある。


「被害者のいる事件を題材にするな、か」

 尤もな意見だ。遺族の方が読んでも気分を害することがないように、注意はしているつもりだが……。

 所詮、感じ方は人それぞれだ。


 しばらく考えて、あの事件についての考えを返信に書いてみた。

 送信ボタンを押すと、画面がリフレッシュされる。


「おや、またコメントか」

 新着コメントの赤マークの隣には、投稿者のハンドル名が出ていた。


 アキナ、と。

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