第49話 備え

「ではベイオ、ファラン。講義はここでひと括りじゃ。わしが戻るまで、しっかり学ぶのじゃぞ」

「「はい」」


 愛弟子たちにしばしの別れを告げ、シェン・ロンは熊侍ガフの陣営へと向かった。


 老師は明日の朝、ディーボン軍と共に出立する。ガフの第一陣と共に、逃げ出した国王を追撃することになる。

 他の部隊は、西と東に迂回しつつ麗国の各地を平定していく。そうやって秋の収穫を確保しながら、北都にこもる国王と軍を包囲していく作戦だ。

 こちらが町や村を支配下におけば、それだけ国王側が手にする年貢は減る。つまり、軍事的包囲網と経済封鎖を兼ねている。


……上手い作戦じゃが、ひとつ大きな穴がある。


 そこが気になる老師だった。


 この包囲網は、北側が大きく開いている。つまり、中つ国との国境だ。

 国王側が出し続けている救援依頼が認められれば、兵も物資も補給を受けられる。


 なにしろ、中つ国は大きい。麗国の人口が数百万、ディーボンが二千万なのに対し、一億と数千万だ。仮にディーボンが麗国を完全に併呑したとしても、まだ数倍の開きがあるのだ。

 ただ、広い国土に分散しているため、数百万の兵が押し寄せてくることはないはずだ。


「恐らく、数万が精々じゃろう」


 陣営に着いた老師は、参謀のギモトに告げた。


 とは言え、国王側がかき集めている麗国兵が加われば二十万。数の上では十数万のディーボン側が劣勢となる。


「中つ国の兵の強さが未知数ですが、麗国の兵がいきなり強くなりでもしなければ、互角以上で戦えるのでは?」

 ギモトとしては、糧食など兵站面での心配はしていたが、兵力差は差ほど気にしていなかった。


「そうもいかんぞ。敵側にも呪法師が付くかもしれん。わし以上の使い手がな」

「まさか……」

 それくらい、老師の呪法は別格だった。


「評価が高いのはありがたいがの、呪法の本場は中つ国じゃ。人口が多ければ、わしより年を食った奴もおるじゃろう。油断はできんぞ」


 なるほど、とギモトはうなずいた。


「老人をこき使うのは行けませんな」

「お主がそれを言うか」


 二人して大笑いしたが、笑っていられるのは今のうちかもしれない。


* * *


「呪法って年の功なんだよな」

 自室で教科書の「理経」をパラパラめくりながら、ベイオはぼやいた。


 この本は、呪法の理論体系である呪教の経典で、天地のことわりについて書かれている。中国の五行思想とか、中世ヨーロッパの錬金術を思わせる内容で、すこぶるファンタジーなのだが。

 老師は若い頃に、この本を何度も暗記するまで読んだという。それに加えて、本にかかれた通りに瞑想などの鍛練も続けたという。

 この鍛練の量が、呪法の威力、いわゆる呪力の差になる。


 ベイオが直に見た派手な呪法は、田舎代官のヤンゴンが放った電撃くらいしかないが、文官に使える呪法は、大抵あの程度らしい。科挙の為に経典の丸暗記はするが、内容を深く理解したり、瞑想などの鍛練は御座なりだからだ。


「でも、そんなに鍛練ばかりしてたら、モノを作る時間がなくなっちゃうよ」

 

 そもそも、工業化を目指したのは、工作のノウハウを活かしたいからなのだから、その時間がなくなってしまっては本末転倒だ。

  

「呪法で動かす蒸気機関とか、できたら良いのにな」

 実際には、石炭を燃やした方が遥かに効率良い。環境汚染が気になるが。


「ベイオ、いるだか?」

 部屋の引き戸からアルムが顔を覗かした。

「勉強、終わったなら、遊ぼう!」


 ……アルムはいつも遊んでるけどね。


 この子にとっては、ベイオの工作の手伝いも遊びの内だ。


「よし。じゃ、今日は都を散歩してみよう」

 たまには、外に出て遊びに近いことをするのも良いだろう。ゾエンやファランの慰撫のおかげで、占領下とはいえ都の住民にも日常が戻っていて、治安も改善していた。


 ……なにか、作りたいものが見つかるかもしれないしね。


 結局、工作から離れられないベイオだった。


* * *


 雨季だというのに、外に出るとカラリと晴れていた。


「天気がよくて、気持ちいいだ!」

 アルムは能天気に喜んでるが、ベイオは気がかりなことがあった。


 ……この夏、大丈夫かな。


 雨季に降った雨で、秋雨までの夏場を乗りきるのが、この国の南半分だ。それが、ここ何年か、雨量が少ないらしい。

 ベイオが灌漑に着目した理由だ。


 故郷の村など、ディーボンの手で灌漑工事が進んでいる土地はまだいい。この国の大半は、まだ置き去りだ。

 ファランが予知夢で見た獣が農民の蜂起だとしたら、その可能性が高まる一方だ。


「ベイオ、あっちに沢山、人がおるだよ」

 アルムが指差す方を見ると、まさに「黒山の人だかり」となっていた。


「なんだろうね?」

 ベイオも興味を引かれたが、喧嘩などなら近づかない方がいい。アルムならヒト族のの大人より強いが、女の子に守ってもらうような状況は、避けるに限る。


 しかし、アルムの言葉で気持ちが変わった。

「このにおい、ファランと、ジュルムだ」


 喧嘩であろうがなかろうが、見てみぬ振りはできなくなった。

 アルムの手を引いて、ベイオはそちらに向かった。


「そもそも、ディーボンのケダモノが攻めてこなけりゃ、国王さまだって逃げ出さずに済んだんだよ!」

 周囲で「そうだそうだ!」と声が上がる。その一人が、道に落ちてた汚物をファランの顔めがけて投げつけた。


 ――あっ!


 ベイオが声を発するより早く、ファランの傍らのジョルムが飛び出し、汚物を手で弾いた。その結果、飛沫を全身に浴びてしまった。

「くっ……」

 思わず声が漏れ、燃えるような金色の目を投げつけた暴漢に向ける。


「な……なに睨んでやがんだ犬猫風情が!」

 日本なら、ヘイト禁止法で死刑になるべきような事を叫ぶ暴漢。


「今日はここまでにしましょう。ジョルム、ありがとう。帰ったらよく洗いましょうね」

 そう言うとファランは、ジョルムの手を引いて帰ろうとした。

 汚物まみれの手を。


 そんな二人を見て心を打たれたのは、どうやらベイオだけではなかったらしい。先ほどまで暴漢と一緒に騒いでいた連中も、ありえないものを見た気分のようだった。


 国どころか世界も問わず、人は誰も固定観念の中で生まれ、生きる。

 「貴人は汚俗にまみれず」とは、この国の慣用句だ。それを、この幼い姫君は、何のてらいもなく打ち砕いてしまった。


「すごいな。ファランも、ジョルムも」

 思わず、つぶやいてしまうベイオ。

 聞こえたのか、ジョルムがこちらに目を向けたので、軽く手を振る。ジョルムはうなずいて、ファランに付いて立ち去った。


 ……それにしても、都はもっとキレイにしたいよね。


 投石も困るが、石よりも沢山あるからと投糞するのはやめてほしい。下水道は無理でも、し尿処理はしっかりしないと。夏にかけて気温が上がれば、不衛生は命にかかわる。


 ……荷車で馬糞とか集める仕事、成り立つかな?


 確か、江戸時代ごろには、そうした仕事が事業として成り立っていた。大江戸八百八町から集めた下肥を、近郊の農家に肥料として売りつけるのだ。


 ……でも、汚物は発酵させないと肥料にならないんだよね、たしか。


 さすがに発酵工学は、ベイオが日野少年として学んだ前世の工業高校でも教えていなかった。

 そもそも前世の世界でも、下肥の利用は日本が最も早く、鎌倉時代であった。この時代に比べると、ほぼ、五百年前だ。

 そうなると、ディーボンの人たちに聞くのが早いかも……。


「ベイオ、みんな行っちゃっただよ。おらたちも、散歩つづけよう」

 アルムに言われて、ベイオは我に返った。


「そうだね、散歩しよう」


 空を見上げると、傾きかけた陽射しに、白雲と黒雲が混ざり合って浮かんでいた。


 ……旱魃や不作に備えて、灌漑や肥料などの備えをしないと。


 実際には、もっとたくさんの備えが必要だった。

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