第103話 春の歌・夏の繭
北の国境にも、ようやく遅い春が訪れた。
コニンはヤノメから、家事や裁縫、読み書きなどを習う毎日だった。
ボムジンの子供好きが広まると、彼の家にはいつしか幼い子供たちが集まるようになった。コニンも次第に打ち解け、一緒に遊ぶようにもなった。
そして、時には町の子供たちと野山に出かけ、山菜なども採集する。
「今年は、木の皮くわずにすんだな」
「そだな、ありゃマズイもんな」
「オレ、米って初めてくった!」
帰りの道で、口々にしゃべる子供たち。みな、この冬が今までより豊かだったと喜んでいる。
……ジュルムが言ってた通りなのね。
この国の皇帝ベイオは、民が飢えないように、凍えないようにと、食糧や布の生産を増やし、税を軽くしている。ベイオだからできたのだと。
ジュルムは「弱い者を助けたい」と言って旅立った。きっと、ベイオと同じことをやろうとしているのだろう。
厳しい冬は終わった。しかし、新たな命が芽生える春は、新たな戦の火種もまた芽生える。
ジュルムの戦う相手は、ベイオと同じく、貧困そのものだ。それは、もしかしたら終わりのないものになるかもしれない。
コニンは背後を振り返り、国境の山々を見上げ、歌った。獣人語の歌を。
山の上の
愛しいあの人は今いずこ
続く旅に苦難はありや
草の
野を渡る
愛しいあの人の背を押して
その歩みを早めたまえ
閉ざす霧を払いたまえ
空にかかる銀月よ
愛しいあの人の帰る日を
待つこの身こそ寂しくも
同じ光のもとにあり
雲よ風よ銀月よ
愛しいあの人の旅路を守り
なにとぞ無事に帰らせたまえ
この身が
この身が
亡き養母の愛唱歌。たった一年足らずだが、愛情深く育ててくれた彼女が、交易に出た夫を思って、口すさんでいた。
郷愁を募らせるメロディに、獣人語の歌詞は悲しく切なく響いた。
歌い終わると、背後から鼻をすする音がいくつも聞こえた。
「きれいな声だな」
「意味わからんかったけど」
「おっかあに会いたくなった」
「帰ろう、早く帰ろう」
みんな、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔だった。
「そうね、みんな帰ろう」
小さな子の手を取って、コニンは家路をたどった。
ジュルムが旅立って数日後。ギョレン老師がジーヤの引く車に乗って、ボムジンとヤノメの家に立ち寄った。二人はジュルムの後を追い、彼の戦い――弱い者を助けるための活動に加わると言っていた。
「うちの子をよろしくお願いします」
深々と頭を下げるヤノメに、老師は微笑んだ。
「すっかり、母親の顔だな」
「ええ、この子が生まれる前に、しっかり経験を積んでおきますわ」
ヤノメは下腹部を
「あとからまだ何人も来る。しばらく騒がしくなるが、すまんな」
「構いませんわ。うちの人も、賑やかなのは好きですから」
と、ボムジンへ微笑みかける。
老師ら二人が国境の山脈へ向かってすぐ、大きな荷馬車が町へやって来た。そこにはラキアが乗っていた。
「よう、コニン。また会えたな」
「はい」
気さくな彼は、ボムジンの家に集まる子供たちともすぐに打ち解けた。コニンがそこに溶け込んで、受け入れられているのを見て、ラキアは満足げだった。
「ゆっくりしてってくれよ」
友人との再会を喜ぶボムジン。
「わりぃ、そうもいかねえんだ。ベイオが急いでるんでな」
光通信の
荷車には機材と職人たちが乗っていた。櫓が完成する頃には、別な馬車でそこに駐在する通信員が到着するはずだ。
「しかし、国境越えたらどうするんだ?草原はバカみたいに広いんだろ?」
ボムジンの疑問は当然だろう。
「まあな。ここまででも五十あまり必要だったんだ。蛮族……じゃねえ、ジュルシェン族だっけか? あいつらの住む土地全部だと、何百にもなる」
さらに、戦はその南西に広がる中つ国を飲み込むはずだ。そうなると、もはやお手上げだ。
「ま、そっちは老師が何とかするんだとさ」
ラキアはあっけらかんと言ってのけた。
「呪法でか?」
ボムジンは納得いかないようだが。
「俺にわかるわけないだろ」
「確かにな」
二人は声を揃えて、がははと笑った。
その夜は、ラキアたち職人の歓迎の宴となった。食糧に余裕があればこその大判振る舞いだ。自然と、皇帝万歳の声も上がった。
翌日、ラキアと職人たちは作業を開始した。町にひとつ、十キロ先の山あいにひとつという間隔で、国境まで櫓を組んでいく。ボムジンも、その分の木材の切り出しに協力した。
鏡の代わりの銀板は改良され、薄くて軽い木板に銀箔を貼ったものになっていた。銀の使用量を減らし、モールス符号を素早く打てることが狙いだ。
夜間や悪天候で使う明かりも、火力の強いものに変更されている。
これまでの実績から見て、短い文章なら都から北都までは一時間ほどで届いている。ここまででも、半日もあれば到達するだろう。
問題は、その先だ。関係改善したとは言え、異国の地に通信員を常駐させるわけにはいかない。
ボムジンでもわかることだ。ベイオも二人の老師も考えている。
しかしそのためには、かなり危ない橋を渡ることになった。
「ありがとうございます、ギモトさん」
筆談の文字が震えてしまうくらい、ベイオは感極まっていた。
「この紙は後で燃やしましょう。記録が残ると、私もガフ殿も切腹ですからな」
ギモトも慎重だ。
ブソン港の館の一室。
傍らでは、幾つかの木箱が恭しく受け渡されていた。中に納められているのは蚕の繭。表向きは、煮沸して乾燥させたもので、ディーボンからの正規の輸出品だ。製糸の原料としてのもの。
しかし、「なぜか」その中に生きている繭が紛れ込んでしまった。公式にはそう記録されることになっている。同時に、養蚕に詳しい者が移住してきたのも、単なる偶然だ。
毎度のことだが、麗国もディーボンも中つ国から蚕が伝わったのに、産業として定着したのはディーボンの方だった。
綿花は植物だから、気候が合えばある程度は勝手に育つ。しかし、蚕は餌となる桑の栽培から始め、人手を介さないと生きることさえできない。その意味では、牛や馬より遥かに家畜化されている。
この国のように、全ての産業が農家の片手間でしかないのでは、到底無理な話だ。朝貢の返礼で蚕が伝わる度に、「是非とも産業化すべし」との言説が飛び交う。が、それで終わる。発言して称賛を得れば、満足してしまうのだ。苦労して成功させても、その「苦労した」ことそれ事態が「下賎なもの」として蔑まれる。
水車と全く同じ顛末で、この国の養蚕は根付くことなく何度も途絶えたのだ。
だから、ベイオが変えないといけなかった。ディーボンで養蚕を行っていた熟練者を厚待遇で召し抱え、なんとしても根付かせる。加えて、繭や生糸での輸入も増やし、絹織物の加工貿易を確立する。
ディーボンへの輸出は加工貿易のみとし、純国産の絹は大陸へ売りさばく。
製糸から織機までの自動化は、すでに目処がついている。国中に風車や水車による紡績工場が作られ、綿花や羊毛から糸が作られている。ここに、蚕の繭からの製糸が加わるわけだ。
この絹織物を報奨として、遊牧民に伝令を担わせるというのが、広大な内陸部での連絡網を築き上げるベイオの計画だ。
なにしろイロンに言わせれば、故郷の大陸西側では、ついこの間まで、絹は同じ重さの純金と取引されていたというのだ。
さすがは、シルクロードを産み出しただけのことはある。
それだから、遊牧民の間でも絹織物は貴重品だ。それが、こちらの決めたやり方で伝令を務めれば手にはいるのだ。喜び勇んでやってくれることは間違いない。
あとは、効率的な伝達システムを築き上げるだけ。
こちらには、老師たちの知恵が非常に役立った。
「やれやれ、ようやくこの頭を本来の使い方に用立てられるのう」
禿頭をペシペシ叩き、シェン老師はつぶやいた。
「よろしくお願いします」
素直にベイオは頭を下げる。
彼が教えを乞うのは、馬と獣人の比較についてだ。前世の知識には、どちらも存在しない。獣人は当然だが、競馬も馬術も興味がなかったから、馬についても具体的な知識は非常に限られる。
「では、まず最初に。馬と獣人に違いなどない」
「え?」
いきなりヘイト禁止法違反だ。某SNSなら投稿禁止になるくらいの。
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